悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語5

巡邏の兵隊、5人程の分隊が私達の家族を呼び止めた。

今は交代したばかりの兵隊が任那駐屯の日本軍には多くなっている。

季節はまたしても秋。ここに定住しようとする兵隊以外は、毎年少しずつ入れ替わって行く。冬の季節、現在の11月から2月を除いて、2か月に一度は定期便が日本と任那を往復している。

だから、私達家族の顔を知らない者も多いのだ。加えて、運の悪い事に、そいつらは確信犯で私の母と姉を狙っていたらしい。前々から狙っていたのだろう。

庇護の無い唐人の女子供なら、何をしても良いのだと言う、悪い事を考え付いたのだろうが。その時は父が居なかったのが災いした。

例によってニンニクを齧りながら、そいつらは臭い口から汚い言葉を投げかけて来た。

私や兄を無視して、そいつらはまだ小娘の姉と、美しい母に大声を出して恫喝して来た。

女を口説くのに詩も使わない。それなりの腕っぷしと武器は持っているのだろうけど、それ以外は何も持たない連中だった。

 

母の目配せで、私達は一散に逃げ出した。

近くの薄暗い竹の茂みの中に走り込んで、その後に更に速度を上げた。人間業ではないと悟られるわけにはいかない。

武器を持った兵隊達は、それでも追い掛けて来た。女子供の足なんか問題ではないと思ったのだろう。

母が導くままに、人間業では到底なしえない速度で、硬い竹の枝や地下茎を避けながら走り抜ける。衣服にも一切擦り傷すらつけずに走り抜ける。

足元は黄色い土で薄く覆われているが、それらにほとんど足跡も付けないで走る。

 

兵隊達は、木靴を履いていたが、やはりそれでも長い武器を担いで、見通しが悪く、地面に硬い突起がわんさかある竹林の中で私達を追い掛けるのは至難だった。

やがて、足の裏や指を切った者が出て、悪態をつきながら退散して行く。

 

私達は、それで事が済んだものと思っていた。しかし、甘かったのである。

足の裏を、竹を伐採した後の地下茎の残りで切った者の一人が数日後に死んだ。

単に破傷風のせいであるが、それを怪しい女子供を追跡している内に、毒に侵されて死んだ。呪詛を使う魅物がいると言う事を、無頼の兵隊が上官に訴え出たのだ。もう一人の兵隊も、脚が腫れ上がり、高熱を出して生死の境を彷徨っている。

逆恨みも甚だしいが、古代には裁判所も警察も無く、それらの原型もなかった。そして、妖怪であると疑われる事は、当時は恐ろしく危険な事だった。

 

父はやはり訴え出て、妻と娘が乱暴されそうになった事、兵隊を制止しようとした兄が、矛を振り上げて威嚇された事を申し述べた。

侃々諤々の言い争いの末に、同席していた母が能力を使って、仲裁してくれていた役人に善良な心を植え付けた。彼は、次の日本本土への船便に、私達家族を乗せて帰還させる様に取り計らってくれると言う事になったのだ。

彼は、この地に勢力を持っていた秦氏の傍流の者で、父が製鉄を良くすると知って、出雲に向かう船に便乗させてくれた。

2人目の死者が出て、更に追及は手酷くなった。私達は秦氏の館の隅の小屋に匿われることになった。

所詮、その兵士達は、何の身分も無い破廉恥な下人である。秦氏の館の中に何の手出しもできる訳がない。しかし、私達はもう任那の領内を歩き回る事ができなくなっていた。

これが二年目に私達が任那を去る事になった原因である。

帰りの船は、言ってみれば鉄の玉金を満載した貨物船であり、船足は本当に遅かった。

途中で対馬に寄り、玉金を少し置いて、食糧と水を仕入れる。対馬は当時から日本人だけが入植していた島で、朝鮮半島の人達は本当に少数しかいなかった。

先般の戦闘の影響もあって、彼等はほとんどが追い払われて対馬に残っていなかった。

そこに小ざっぱりした外見の、目元や面相が日本人らしくない親子がやって来たのだから、外国人が来たのだと警戒されてしまう。

本当に、自分達の実際に不便な外見を私は何度呪った事だろう。

この時は大事はなかった。ちょっと騒がれただけで、兵隊が来る事もなかった。

秦氏の船なのだから、交易のために外国人を運ぶ事もあるだろうと勝手に納得してくれて終わったのだ。

 

それからすぐに船は出発し、五島列島を抜けて、九州沿岸に入り、現在の門司港に向かうコースに乗った。

当時から江戸時代までの船は、一時期の例外を除いて、全て遠洋を独行する様な構造になっていない。

毎度弱い構造を点検しながら、小刻みに動いて行く。余程の好天でない限り、夜に船を動かす事もしない。艤装が脆弱過ぎるのだ。夜に変事が起きたら、人間の目では何も確認できない。木造船の中で灯りを灯すのは自殺行為でもある。

その点については、数百年後の軍用船舶にしても同じ事だったが。

 

九州から出発して3日目に、現在の山口県の北部の海上で、その事件は起きた。

夜中に、船体で異音が発せられたのだ。当時の船には後の竜骨は入っていない。単に張り合わせた木の板を釘で留めているだけの船で、後の浴槽よりも余程作りが悪い。

そんなものに重い荷物を満載するのが本来無理なのだと思う。

しかし、当時の船は全てがそんなものだった。それなりの知恵と、それなりの用心によって、それなりの安全を確保していただけ。それでも十分に交易や貨客は成立していたのである。

そうではあっても、やはり私達の家族は運が悪かったのだろう。こうして海難に巻き込まれているのだから。

全員が甲板の上に集まって大騒ぎをしている。幸い風は吹いていたので、2本の帆で方向変換はできる。しかし、曇っていて月が見えない暗い夜であった。

船頭は、乗り合わせた貴人に陸に乗り上げて、積み荷と乗組員を救うべきだと進言した。貴人は物分かり良く、それを認めた。

竜骨の無い船は、座礁したら終わりだ。何をどうやっても、自重で船は壊れて、穴が開いてしまう。積み荷は重い玉金の木箱だから、今の時点ではどうやっても甲板に上げる事はできない。そんな事をすれば、簡単に船が転覆していまうのだ。

 

乗り上げる事の出来る砂浜がないか。私達も甲板から探した。私達は揃って夜目が利く。人間の視覚では真っ暗闇でも、私達には暗がり程度だ。

母は、私と兄に「目を光らせては駄目よ。」と小声で告げた。私達が夜に出歩く事をしないのは、自分でも意識しない内に、目が光っている事が多いためだ。

家の中でも、灯火が消された後に、家族の目が凄い光を放っているのを何度か見た事がある。兄や姉でもついついしくじる事があるのだ。

余程に気を付けないといけない、こんな海の上で船員達の注意や警戒、あるいは危険な意図を掻き立てて良い筈がない。海の上では逃げも隠れもできないのだから。

いや、逃げられるか。でも、私はそんな事はしたくなかった。

この人達は私達に親切にしてくれたからだ。特に、貴人である秦氏の人は、幼い私に本当に親切にしてくれたのだから。

「あれを。山の上に灯りが見えます。」姉がそう船員に告げた。

船員達は、そんなものは見えないと言うが、姉は確かに見えると言い張った。

「目の良い娘だな。あちらに山が見えるのか?」貴人は聞き返した。

「はい、あちらに山があり、そこで灯りが見えました。」姉はそう返答した。

そこは、目的地である須佐の里から少し南の、現在の山口県阿武町の沿岸であり、姉が見た灯りは、おそらく山の上にある後の御山神社となる場所・・・で発せられたものだったのだろう。

何かの用があって、松明を持って建物の外に出た者がいたのかも知れない。

 

「陸が近くにあるのなら、そのまま乗り上げられる砂浜があるかも知れない。」船頭はそう言った。

「後少しのところで船を捨てるのは残念だが、大工達に何が起きたかを調べさせるためにもな。ここは辛抱するしかなかろうよ。」

今や船倉の床は更に大きな物音を立てており、床が壊れたならば、即座に船底も危機に瀕する事態となっている。つまり、いつ船は沈没しても不思議ではないのだ。

また山上に灯火が見えた。今度は船員達もそれを視認できている。

「砂浜が見える!」兄が叫んだ。「あっちだよ!」指をさしている。

「よし、乗り上げろ。このままだ。」船頭は現在の速度のままで進んで、砂浜に乗り上げるつもりのようだ。現在の速度は、後の基準で2ノットそこそこで、非常にゆっくりしたものだ。船体にストレスを掛けない様に、今も速度控えめで航行している。

遂に浜辺に乗り上げる段になって、「全員何かに掴まれ!」との指示が発せられた。

船は直角に浜辺に乗り上げるのではなく、直前で回頭して、緩い角度で浜に乗り上げた。

場所は現在の清が浜と呼ばれる所だった。

接岸の後、長板を降ろし、碇と縄が何本も砂浜に投げ込まれた。

船が転覆したり、自重で壊れ始めたりする前に、全員が砂浜に上陸して行く。

食糧と水筒が運び出されて並べられる。荷物の内で、そこそこ軽くて傷みやすい品物も木箱ごと運び出される。

今もメキメキと音を立てて、船体は傾ぎながら壊れつつある。全ての人達が安全な距離を保ったところで、船が急激に傾き始め、横転こそしなかったものの、帆は2本とも倒れてしまった。

「やれやれ、人死にが出なかったのが不幸中の幸いだったかな。」貴人が言う。

「須佐までは大した距離じゃありません。朝まで野宿をして、その後に歩いて須佐に向かい、難儀について報せましょう。」船頭も安心する。

ところが、野宿の為に火を焚こうとして、誰も火口を持って降りなかったことがわかった。

兄が買って出て、船内に戻り、火口の入った箱を探し出して来た。

 

火打石と鉄の棒、乾いた木片を石の鉋で細かく削る。乾いた地面の上で穴を掘って、おが屑を投げ込んで火花を散らす。その後はフウフウと息を吐きかけて、手間暇かけた上で火は起こった。

枯れ枝がくべられて、その後は一安心した船員達が横になって休息する。

私達一家も火を分けて貰って、それを囲んで筵の上に横たわった。

グラグラ揺れない地面は安心できた。

災難の一夜が明けて、私達は歩き出した。彼方の山を見ても、あの時に灯火を点した建物は見当たらなかった。

現在の御山神社は、厳島神社の系列の祭神を祭ってはいるが、明治時代までは異国の神々を祀っていた奇妙な神社だったのだ。

この時代に、御山神社の前身が何を祀り、どんな信仰を行っていたのかは、全く明らかになっていない。