悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語20

朝から私達は早く起きて支度をしていた。

まだ、明石国から出る訳ではない。むしろ、食糧の提供を受けられると言う事で、数日間は逗留する事となったのだ。

朝餉は、例のごとく母の役目だ。屋敷には、沢山の食糧が運び込まれていた。

特に、干した柿があったのはありがたかった。

蒸し器が用意されて、置いてあった臼と干した大豆できな粉が作られる。

須佐の集落で行われていたのと同じ事、糯米を蒸して麦芽糖を作るのだ。

もう、食糧の不足は真っ平だったから。壺も貰って行って良いと言う事だったので、ありがたく頂くつもりだった。

干した野菜や漬物もあった。柿の葉も周辺に沢山ある。ちょっとだけ頂いて、皆で噛んだり、食べたりした。それ程美味しいものではないが、柿の葉にはビタミンCが大量に含まれている。春先の柿の葉は柔らかいし、臭くない。もちろん、ビタミンなんて言葉や概念を当時の私達も人間も知らない。けれど、それらが必要な事を経験で知っていた。(まあ、神狐にはビタミンって必要じゃないみたいだけど。みんなやってるからね。)

 

そや達は、全員が血と脂で鈍った武器を研ぎ直している。護衛達の桂甲もあちこちが解れてしまったり、破れてしまったりと大変な事になっている。

姉は例によって裁縫の腕前を発揮している。本当にあそこまで器用な針子なんか、人間ではなかなか居ないだろう。それが麗しい見目のローティーンで、凄腕の薬師なのだから、もうパーフェクトとしか言えない。

姉は、怪我の酷い順番に治療を再開して、その合間に裁縫までこなしているのだ。姉の事を怠惰だと思える者などこの世にはいないだろう。

作り置きの薬草や膏薬は殆ど使いつくしているが、それで姉の治療に何の差しさわりがあるだろうか。そこらのかぶれない野草をすりおろしただけでも、姉の力なら治療効果は変わらない事だろう。

ただ、今回の旅の反省点と言う事では、私達は結構手の内を見られてしまったと言う事だろうか。ありえない程の有能さを見せてしまったと言う点だ。

しかし、本質的に働き者の私達が、何かで手抜きをする事は難しかった。特に、人の生き死にに関わる事については。

 

その日の昼過ぎ、荷車が大量の食糧を乗せてやって来た。魚介類の干し物、海藻の干し物が俵となって積まれ、穀物も櫃に入れられている。

その車を牽いているのは、逞しい大男達で、徒歩でそれらを引率してきた、背の高い身なりの良い男が門の近くから呼ばわった。

聞けば、彼等はひでの集落の者であり、背の高い男はひでの兄だと言う。

詫びを入れに来たのだなとは思ったが、身内が直々に来るとは思っていなかった。そして、彼はいかなる意味でも、ひでと似たところがなかった。背が高い以外は。

稲目様は彼を屋敷に招き入れて、それから長い間話をしていた。

私は荷車を直したり、麦芽糖を作る作業をしていたりと、バタバタ働いていた。

けれど、屋敷の中から聞こえて来る声は聴いていた。その気になれば、私は何でも盗み聞きできるのだ。稲目様の事も心配だったし。

 

「わしは、今後この国に、外国からの慈悲深い教えを伝道して行きたいと思っている。まずは、お主にその心をわかって欲しいのじゃ。お主の弟とは戦いになった。わからん理由で兵隊達を差し向けられた。そして、返り討ちにしてしまった。兄として見れば、わしはお主の仇かも知れん。わしの事を許してくれるか?」

「それはもちろんの事。稲目様が、その広い御心で、弟の罪を咎めず、埋葬しても良いとの仰せ。ならば、これからでも身共は播磨に向かい、川縁で斃れている弟の亡骸を収め、先祖と共に弔ってやりたく思います。真に望外の幸せに存じます。」

うん、上手く行ったみたい。それがわかれば、後はどうでも良かったのだ。

「して、それが”みほとけ”と言う新しい神の教えなのでしょうか?人を許し、恨まず、殺さず。非道な世を救って下さると?」

「そうであればと思っている。御仏は全ての人を救って下さる、極楽へ導いて下さる方々なのではないかと。そう願い、我等がこの世に御仏の教えを伝える事で、我等の先祖は諸共に子孫達が親しみあい、慈しみあう姿を見て、慰められるのではないかと。そう思い、願っているのじゃ。」

「まことにありがたい教えにございます。なれど、習俗として定着するまでには、随分と時間が掛かりそうですな。」

「左様じゃ。わしの代では無理じゃろう。しかし、子や孫の代まで掛かっても、何としても非道な人の心を正し、安寧に満ちた国を作り上げたい。そう思う気持ちに従いたいと思うのじゃ。」

ひでの兄は、随分と優れた知識人であった様だ。稲目様と互角に言を交えている。そして、スラスラと様々な考えを交換しているのだ。そして、ひでの兄は思う所を切り出した。

「さすれば、古来から我等の崇めて来た神々はどうなるのでしょうか?」

「我等は、様々な神々を崇めて来ました。先祖達、もちろん、稲目様の大いなる先祖でございまする素戔嗚尊、大己貴や櫛稲田、それと繋がる建御名方それらの蛇神を奉じる出雲由来の方々はどうなるのでしょう?また、神格を得た木霊達は?天地に満ちる獣達の神々はどうなるのでしょうか?」

その時気が付いたのだ。後ろに父と母が揃って立っている事に。

「さえ、ここからが大事な所なのですよ。是非聞いておきなさい。」母は小声で私にそう囁いたものだ。私は頷いた、そして更に耳を欹てたのだ。

「この国の者達は、決して古い神々への信仰を絶やしはせぬ。仏の道を説く事は、長きにわたり平和の失われた、哀れなこの国の姿と人心を変える為の方便でしかないのだ。この国の者達はきっと神を敬い続けるに違いない。」

「わしは誰よりも、その事を信じておる。なによりも・・・・。この国に住まう神は、人の姿を持ち、人の心を持ち、人と睦みあい、人を慰めようとする。わしはその事を知った。神々は、人に交じって暮らし、人と同じ心を持つ。善と美を、悲しみと喜びを、神々は人間同様に理解しておられるのだから。この国の者達、我等の子孫達は、決してその事を忘れまいよ。」

「稲目様、それはいかなる事にございましょうか?この身にはさっぱりと・・・。」

「そうじゃな。こればかりは、神々に出会うた者でなければ確信できぬ事じゃな・・・。」稲目様はそう言って、一旦話を打ち切った。

 

ぽんと私の頭を軽く叩くと、父は踵を返して元の仕事に戻った。母も同様に仕事に戻って行った。

私も蒸し終わった糯米を、板の上で麻の布に広げる作業に戻った。

しかし、稲目様の言葉を聞いた後では、作業に集中できる訳もない。頭の中がもやもやしていた。

自分でもわかっていたし、覚悟していた事がある。この旅が終わった後に、それ程遠くない日の内に、私達は稲目様の前から消えてしまうのだと言う事を。

その日は近いのだ。他ならぬ、自分自身の姿が、6歳のままでいると言う事が原因なのだ。兄も姉も人よりずっと成長は遅い。人の目から見れば、数十年経ってもほとんど変わらない事だろう。それは父母も同様だ。

そう、私達は人の心を理解する。人と同じ様に考え、人を好きになる。けれど、人と同じ時間を生きている訳ではないのだ。

その事実が、押し寄せる様な寂寥感となって、私を苛んでいた。