悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語18

みよしは、武装もせず、身なりを整えた姿で現れた。

おそらく、明石国の長から、稲目様の先導を命じられたのだろう。

ところが、帰ってみれば恐るべき事態が出来していたと言う事だ。

彼の振る舞いは、それでも沈着なものだったが、やはり無理をして自制している事はありありとわかる。

そして、稲目様を見つけるなり、近寄って膝と手を突いた。動転のあまり、いきなりは何も口に出せない。

「みよしよ、良く来てくれた。お前が来てくれんと、我々としても到底動けんところだった。」稲目様はみよしにそう言った。

「聞いてのとおりじゃ。そこの馬鹿者のせいで、そちらは30人以上、我等も一人の護衛を失った。」

「まことに・・・。どの様な申し開きもございません・・・・。」みよしの声は絞り出すような嗄れ声であったが、それでも良く響いた。

「全ては、そこに転がっておる痴れ者の企みよ。」稲目様はそう言って、ひでを指さした。「それをわしは明石国の者が企んだとは思っておらん。」

みよしは安堵の表情を少しだけ見せた。

その時だ。ずっと黙っていたひでが口を開いた。

「みよし、助けてくれ。誤解なのじゃ、兵隊が死んだのは辛いが、稲目様は無事じゃ。取りなしてくれ、わしを助けてくれ。」そう言ってすすり泣いた。

 

あまりにみっともない命乞いに、一同粛然としてしまった。

「正気でしょうか?図太いと言うか、理解それ自体が不可能ですな。」護衛隊長はそう言いながら、既に剣を抜いている。

「待て、殺すな・・・・。」稲目様は制止した。

「あ奴は明石国に帰って貰う。そこで裁きを受けさせるのじゃ。」

「お言葉ですが・・・。」みよしがそう言った。

「明石国でひでを裁きに付せば、事態は公になりまする。その時点で、明石国の皆が誅されても仕方ない事態が出来しまする・・・。」それは懇願だった。

「ひでには、ここで死んで貰う以外にはございません。」

「闇に葬ると言う事か?よかろう・・・。」稲目様もそう答えた。

それからのひでは豹変した。

「やめよ!どのみち、こ奴等を全員殺さねば、いずれ明石は攻められて滅ぼされる。こ奴等を皆殺しにしないと、誰も助からんぞ!」と喚き立てた。

護衛隊長はスタスタと歩み寄ると、振り上げた鉾でひでの頭を叩き割った。念のために背中にもう一撃。しばらく、ひでは痙攣していたが、血も噴き出なくなり、動きも止まった。

 

「これで、此度の騒ぎの張本人は消えた。賊と戦って死んだと、公には言うが良い。わしもこの事は一切大和に帰っても口にはせぬ。」そう言ってみよしを見つめた後に。

「ただし、お前達の口から漏れ出た場合は、わしも黙ってはおらぬがな。」とだけ念を押した。

「は・・・。それは勿論の事。」それだけでみよしは口を噤んだ。

「今更ですが、稲目様ご一行をお運びするための大川舟を用意して参りました。この様な事の後に、お受け頂けるか・・・。」

「ありがたく使わせて貰おう。それと、当方の戦死者じゃが、埋葬を頼めるか・・・。」

「は・・・。謹んで・・・。」その後すぐに、私達は林の中から、加古川の川縁まで移動し始めたのだ。もう、昼を少し過ぎた時間だった。

護衛達は、ほとんど体力の限界で、気力と緊張で身体を動かすばかりだった様だ。

無事な者はまだしも、負傷者達はいわんやおやだ。

 

せめてもの救いは、キチンと食事だけはさせておいた事だろうか。稲目様は、残り少ない食糧の多くを午前中に母と姉に渡して、食事を作らせていた。

食事をさせると言うのは、本当に馬鹿にできない違いを人間に及ぼす。

もちろん栄養補給と言う事は大切だろう。空腹では力も出ないだろう。しかし、食事にはもっと違う効用があるのだ。

それは日常性の回復と言う事だ。食事をすると言う行為そのものが、緊張や憎悪、教父を和らげてくれる。まして、美しい母や姉、そして私と言う戦場には居ない筈の女どもがそれを配っているのだ。

喜び、微笑み、笑う。桂甲を着たままの慌ただしい食事であっても、護衛同士が同僚、あるいは戦友の食事風景を見やると、そこには慕わしい同士が今も生きている、自分と共に日常を過ごしている光景が目に映る。

それが人の目には、優しい性質の人の目には、美しく安心できる光景に感じられるのだ。

それこそが、どんな苦難でも乗り越えさせるある種の余裕を人に与える。

ある男が、ずっと後にこんな事を言ったものだ。(ディスプレイを後ろから覗き込まないでよね。そう、貴方以外に誰が居るの?)

「さえ、個人主義は結局のところ、善や美や正義を守ると言う方向には行きつかないんだ。何故だと思う?」

「人はそれぞれに違う。考えも、感じ方も、生い立ちも、私と君では性別だって違う。けれどね、それでも私は他の人達の事を理解したいと思う。理解できなくても慕う事はできるんだ。そうだろう?」

「けれど、個人を重視する事に人が偏れば、その時点で人は自分と自分以外の人達の権利を絶対だと思い込む。法律で保障されているから?でも、人には本来は権利なんか無い。社会と言う大きな図体の護り手を作って、なんとか互いの権利を守り合っているだけだ。そして、個人主義を奉じる者達は、その社会を軽視しがちになる傾向が強い。どれだけもたれても良いものだと思い込む。単に甘えているんだ。そこには善や美は無い。権利を保証する法律には実は正義は無い。ずるい奴等は、他人からの庇護を当て込んで怠けようとする。」

「人はね、本当は小さな集団だけで、お互いにもたれあって生きて行くのが幸せなのさ。けれど、時は巡って、人は大きな集団を作った。後戻りはできない。これからの日本は、更に大きな社会を作る事が運命付けられている。さて、人がどんな風にとても大きな社会に適合して行くのか。私は楽しみだね。」と・・・。

 彼がそう言ったのは、明治維新の頃だった。最後に私が軍隊の陣中に入ったのも、その頃だった。十数世紀を経ても、人の本質であり、悲惨な環境下での善性は遂に変わらなかったと、私は知っている。(ヴァス、貴方はどうなの?)

ちなみに、その直前まで彼が居たフランスはどうだったのかと言うと、あれが適合の成功例だと思うほど、私は人間に絶望していないとの事だったが。

 

とにもかくにも、最後の力を振り絞って、隊列を組み、護衛と人夫達は進んで行く。

川縁に出て、私達は前日に誤解していた事を知った。

あの汚れた渡し場は、既に上から大きな被せ板を掛けられて、割れた板敷や汚れた石積を覆い隠していた。

増水で、板が頻繁に流されるので、舟に積んだ渡し板を毎回上から被せているのだそうだ。つまり、隊商の皆は過剰に疑心暗鬼になっていたと言う事で、みよしは嘘を吐いていなかったのだ。

こうなって来ると、ひでが愚かで良かったとしか思えない。もしも、ひでがあからさまに私達に敵意を表明していなかったら、奇襲を受けて、もっと沢山護衛が死んでいただろうし、稲目様の無事も計れたかどうか。

大きな舟に、木箱が次々と積み上げられて行く。その作業の最中に、人夫の一人が、木箱を落下させた。船に続く渡し板の上からで、その下には更に木箱が積まれていた。

「あっ!」と言う大きな声と共に、木箱と一緒に人夫が転落する。人夫はそのまま板に当たって肩をぶつけた。木箱は、他の木箱にぶつかって、更に渡し板に落ちた。

それは細長い木箱だった。その中身が転げ出て来た。

「何と言う事じゃ!」稲目様の嘆き声が響き渡る。

そこには、壊れた木製の人型があった。稲目様が運んで来た、百済由来の仏像の一つだったのだ。

怒鳴り声と、哀願の声が交差する。悲し気な顔に見える、初めて見る仏教の偶像は、腕が折れ、装飾も欠けていた。釘で修理するにしても不細工なものとなるだろう。

ともあれ、幾つか運んで来た仏像の一つが壊れたが、その一つ以外は無事だったのだ。人夫は護衛からぶん殴られて、追い打ちで怒鳴りあげられて泣いていた。

そして、へまをした人夫達は他の荷物を運ぶように命じられ、残りの仏像は、そやと兄が直々に運び込んだのだ。

しかし、この壊れた仏像の一件は、後々に大きな事件に発展したと、私達は随分後で知る事となる。

その頃には、私達は蘇我の領域にはいなかったし、稲目様も既に亡くなっていたのだが。