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妹狐の物語10

初夏の旅は途中までは何と言う事も無く過ぎた。

船は中海を超えて、砂浜の続く因幡の国をすいすいと通過して行く。

途中、現在の鳥取県の倉吉町に寄って、船を点検する。足りなくなった真水は青谷と言う場所の船着き場近くの岩場で補充した。

その後は現在の豊岡市まで一昼夜で到着した。この頃から、近くの城崎には温泉が湧出しており、日本中の津々浦々に存在する大己貴を祀る神社もそこにあった。

現在の様な温泉宿こそ無かったが、一行はそこに立ち寄って数日逗留した。

兄などは、一日の半分を風呂に入って裸で過ごしていたものだ。

私も姉も父母も、ゆっくり温泉に入り、今後の旅について思いを巡らせていた。

 

ここから先は、現在の京都府宮津市を通過した後は、嫌でも陸路になる。

この先は、現在の舞鶴港や敦賀まで行く道で、終点は近江(滋賀県大津市)の街道があるばかり。(後の鯖街道)

現在の京丹後市峰山町からは、整備された街道を通って、海沿いから山を抜けて、横山(現在の福知山市)に出るか、和田山から播磨に出るかの二択になる。

この当時、神戸港は単なる中継港であり、数百年後に福原に都が造営されるとかは想像も付かない辺鄙な場所だった。

姫路の周辺も、それ程の人口は擁していない。岡山、広島は、船で行く所で、陸地を通るなら、津山経由の街道しかなかったのだ。

私達は先にも言ったとおり、和田山を通って、播磨に至る道を進んだ。

理由は一つ、まだしも安全だったからだ。稲目様は、任那に領置を有していたせいで外国人とは昵懇の仲だった。それ故に、当時の渡来人が仕出かしていた様々な悪行も知悉していた。

現在の福知山市周辺では、渡来した外国人が徒党を組んで山賊行為を行って居る事も稲目様は知っていた。関わり合うのは真っ平だったのだろう。

但馬は、新羅に移り住んだ遠い昔の王家の出身地でもある。それ故に、向こうから来る者も多く住み着いている。

出雲や伯耆、因幡では、渡来人は鼻つまみ者で山間部以外に住処はなかった。だから、人口の少なかった当時の但馬や丹波ではそこそこの数が存在していた。ただし、現地の豪族から快く思われていた訳も無く、当時は少数だった後世の小作人にもなれない。地元民に見事に警戒されていたからだ。田畑も用水も、今年来て来年にできる訳ではない。できたとしても、それまで食い繋げられない。

そんなこんなで、食い詰めた末に、日本人のふりをして山賊を行うのだ。これがお定まりのコースと言うのだから困ったものだ。そして、討伐されて、一族滅せられて消える。

 

そんな危険地帯を避けて、私達は陸路を進む。途中に寄った天橋立と言う場所は、今も絶景だが、当時は格別の絶景だった。

後に厳島神社を見た時と同様の感動に、私達家族はうっとりとしたものだ。

そして、そこを過ぎた後は、私達の行列はどんどん南下して山に入って行く。

これからの数週間は、昼なお暗い山間部を進んで行く事になるのだ。

うねうねと、山の周囲を縫って隊商は進んで行く。今では、播但ハイウェイと呼ばれる、山をトンネルで結んだ路線が通ってはいるが、昔は氷上の集落に抜けるだけでも大変だったのだ。

気の利く兄は、隊商に驚いて飛び上がる鳥を、自慢の弓で射落として行く。それらの獲物は、最後尾の荷車の後ろに括り付けられて、夜になれば羽根をむしられて食料にされてしまう。

兄の射撃はとにかく早い。これには、護衛の兵隊達も驚くしかない。実戦だと、敵がこの様な射撃を集団で行ったとすると、味方は簡単に手傷を負わされてしまい、大きな武器を持っている優位が失われてしまうのだ。

何しろ、この弓矢は10間程の距離ならば狙撃が簡単にできる弓であり、狙われたらほぼ避けられない武器なのだ。死ななくても、怪我をすれば何時間も戦う事はできなくなる。そして、今日を生き延びても、負った怪我は明日に治る訳ではない。

 護身用の22口径拳銃、兄の弓はそんな地位の武器であった。

それぞれの護衛は、兄の並々ならぬ手並みに舌を巻いていた。

 

「はつせ、汝の弓は大変な代物じゃな。」兄と仲の良い、蘇我氏の郎党が声を掛ける。

彼は”そや”と言う名前で、古兵隊(ふるつわもの)の父に鍛えられて、自らも兵隊として幼い頃から訓練されていた、当時では珍しい専業兵士だった。

ただ、年の頃はまだ14歳と言う事で、まだまだこれからと言う若い兵隊だった。

そやと言うのは、戦闘用の矢と言う意味だ。彼はもっぱら鉾を扱う歩兵で、弓矢はそれ程は使わない。最近では、父の考案した槍をどう使うかを工夫しているらしく、仲間の兵隊と共に、いろいろと隊列を組んで訓練をしていたりするそうだ。

護衛の兵隊は、この規模の荷駄隊としては少な目で、列の前に4人、後ろに4人、稲目様の周辺に6名程が控えている。

盗賊の話は、この付近ではあまり耳にしないが、それでも付近の集落で何度も補給を繰り返している。もし、盗賊がいるならば、既に彼等は荷駄隊の事を知っている事だろう。危険なのはこれからなのだ。

 

兆候は、和田山を過ぎて、朝来の集落に向かう低地の街道(山を掘りぬいてトンネルを作る技術は20世紀まで存在しない)で見受けられた。

何人かの山仕事をしている者には見えない男達が、入れ替わって現れる。そしてすぐに姿を消す。

ここらは盗賊がいた場合は格好の襲撃場所になる。

そして、しばらくすると狼煙らしき煙が上がる。湿った木を何かの筒の中で燻して作ったのだろう濃い煙が見えた。

一番近い大きな氷上の集落まで後2日は到達できない。その他の小さな集落はどうだろうか?そここそ盗賊の巣である可能性もあるのだ。

貧しければ、飢えていれば、それくらいの事は普通にやるのがこの当時の習わしだった。生きる事と食べる事の為には何をやっても良いと言う事だ。

 

中段の護衛が数名、前列と後列に組み込まれる。相手の人数次第だが、襲撃された場合はともかく防ぐしかないのだ。

そして、相手も、こちらも、ほぼ同時にお互いを発見した。盗賊たちは、間道を走り出て来た。その道がどこに繋がっているのかはわからないが、

双方とも、会敵するという事は十分承知していた。後尾の護衛は、挟み撃ちを警戒して、前列には加わらなかった。

あらかじめ空にされていた荷車が垂直に立てかけられて、臨時の大きな盾となる。相手は弓が4人と鉾と剣を持った者が4人だ。

前列の護衛にはそやも入っていた。彼と後二人が弓に持ち帰る様に護衛隊の長が命じた。