悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語9

私達は須佐を出発する。

母はその直前まで、貰った絹の反物を切って、それに細かく刺繍を行っていた。

母の作った被り物と肩掛けは、花柄で美しく刺繍されていた。

それを受け取った村長の妻は、村の娘の花嫁衣裳として使うと言って涙ぐんでいた。

薬師の家族は、姉との別れを惜しんだ。

美しく、しかも熱心に治療を行ってくれた姉は、薬師一家の宝みたいに思われていたのだから。

姉は、毒素の悪影響を受けない体質を利用して、自らを実験台にして、膨大な野草と薬草についての知識を既に得ていたのだが、その秘伝の一部を竹簡にして残して行った。

それらは、10代前半の小娘が得ている筈もない知識だったのだが、薬師達がそれを得心するのはずっと後の事だろう。

ここに来るまでにお世話になった秦氏の館には、貴人こそ不在だったが、家令の長は残っていた。

彼に父は大変な数の武器と生活用の刃物を残して行った。

立派な鉾を数振り、直剣を一振り、青銅の代物も含めた家庭用の刃物、鉄枠の桶。

剪定に使う鉈、草刈りと稲切り用の鎌を数本。

鉾は、直で桑畑の衛士に手渡されたし、残りの製品は、家令に木箱に入れられて渡された。

家令の恐縮ぶりは大変なもので、しばらく待たされた私達は、家令から直々に封印をされた巻物の筒を手渡された。大和に行くのなら、秦の館に出向いてこれを見せて欲しいとも言われた。後に分かったが、これは家令による感状であり、大和で私達は褒美をもらう事となった。

 

旅立ちの日、近所の子供達、兄が仲良くしていた兵隊や狩人達、姉と仲の良かった村娘達、母が懇意にしていた女房達、皆が別れを惜しんだ。

私達は稲目様と共に、出雲本土から因幡を抜けて、丹波の端から播磨を目指す。

この頃は、既に雪も充分に溶けており、海沿いの街道(現在の国道9号線)を行くのに不便はない。

しかし、今回の旅では丹波の端(現在の京丹後市久美浜町)までは船を使う。その後は、山中(現在の兵庫県氷上郡和田山町)を抜けて、播磨(現在の兵庫県加古川市)に出て、そこからはまた船を使い、浪速(現在の大阪市)に出て、そこから樟葉(現在の大阪と奈良の県境)を通り、大和(現在の奈良県)に至るのだそうだ。

途中には、絶景と言われる場所もあると聞いている。私の胸は期待に高まった。

 

船旅は快適だった。まずは出雲に寄って交易品を降ろす。出雲は良く開発された都で、この頃は随分栄えていた。

見渡す限りの広い原に、一面に田畑が広がっていて、そこかしこに身なりの良い人達が歩き回っている。市場も良く整備されていて、豊かな土地柄が伺えた。

治水がしっかりしている土地で、人口も多い。

市場の品を見るに陶器や土器の製造、染め物も盛んな様で、性分として、どうしても奢侈になれない私達家族の質素な身なりは完全に浮いていた。

巡邏している兵隊の数も大変なもので、そこここに兵隊の詰所や屯所があり、塀を巡らせている場所や倉の数もやたらに多い。

ここに比べれば、須佐はやはり田舎町でしかない。

と言うか、その後に訪れた大和や山城の国では、ここまで豪勢な都市や着飾った民達は見なかった訳で、出雲はこの時期に別格の豊かさを謳歌していたと言う事なのだろう。

出雲で積み込んだ品物は、装飾品と陶器、後は服と反物だったが、降ろした品は見ていない。多分、須佐で作った武器の類だったのだとは思うけど。

あそこでは、父以外にもそこそこの数の鍛冶屋がいたのだ。けど、父はそれらの人達と全く交流を持とうとしなかった。一人だけで鍛冶屋を行い、取り憑かれた様に金床の上で金物を作り続ける。彼は疲れを知らぬ不死身の鍛冶屋であり、その技を盗み見ようとした同業者が、私や兄に見咎められた事は何度ではなく何十度もあった。

実際、私達家族は、父が仕事に没頭する際の警備役でもあったのだ。

神狐の超感覚を欺ける人間など、この世には居ない。後世の忍者ですらも全く問題にならなかったのだ。そこらの普通の人間など話にもならない。

最初から父にはそう言う流れが見えていたのだろう。孤高を貫き、頑固で無口な鍛冶屋を演じきった。ひたすらに仕事を行った。

今頃、須佐の鍛冶屋達は祝杯の酒を口一杯に頬張っている事だろう。

 

この時は、まだ西暦の6世紀の半ばだった。

300年程前までの寒冷化した世界から、随分温暖になり、人は随分増えたのだそうだ。

父と母が生まれたのは、それぞれ紀元前2世紀と西暦1世紀だったそうだ。

その頃から、神狐は数が少なくて、滅多に同族に会わなかったと聞いた。

そして、今回の旅の大和にも少数が、近くの山城の国には結構な数の神狐が居ると聞いた。山城の国の神狐の一人は、この国の狐の中でも一番古い狐なのだとも聞いた。

父と母は、九州の前には実は畿内に居たのではないか。私はそう思っていた。

けれど、私達の家族。本当に仲の良い家族ではあったが、一つの不文律があった。

相手が自分から話さない事は、他人に対して聞かないと言う事だ。

これは、家族の間でも同じ事だった。そのせいで、多くの事を私は家族に聞かず仕舞だったと思う。その他の人に対してもだ。

もっともっと、腹を割って話しておくべき事があったかも知れない。

けれど・・・・けれど。

自分の身の上を話せるのか、他の人に。

自分は話せないのに、他人にはいろいろと聞いて良いのか?

そうも思うのだ。

そんな事を考えている内に、こちらに歩いて来る蘇我稲目が目に映る。もう、彼はこの時代の初老の男だ。

力強く、剛毅な性格で、人に対しても傲慢には振る舞わない。しかし、その男が、これから仕出かす凄まじい仕業の一端を私達は見る事になる。

そして、その仕業が終わらぬ内に、私達は彼の傍から去っていくのだ。

頭を振って、自分の想いを心から追い出す。

 

そうだ、私達は同じ場所に居着けない。この慕わしい男の人を捨てて、私は次の居場所に行かねばならないのだ。

だから、だから・・・・。

そうであっても、後に思った事は、やはりもっと彼と、その他の人達と、もっともっと話をしておくべきだったと言う事だ。

幼い外見の童女が考え巡らしている想像もつかない想いを、当の稲目様は知る由もない。当たり前だろうけど。

人界に、神狐の数は少ない。本当に少ない。そして、心を割って話せる人間は皆無だ。

なるほど、良くわかる。あの優しい姉が、まだまだ子供の外見でありながら、大人顔負けの憂いを纏っている理由が。

私は、この頃から、自分達の家族が本当に孤独な存在なのだと言う事を思い知り始める事になるのだ。