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悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語7

春が来た。正月(現在の2月)以降は大雪も降らなくなったが、私達はそれでも雪に閉じ込められながら、ひたすら備蓄していた食糧で食いつないでいた。

実際、本性を現して、狐の姿になれば山の中できちんと獲物は見つかるのだが、それは最後の手段である。

最近は、兄が小さな弓を使って、鳥を仕留めて帰って来る事も多い。

俊敏で、寒さをものともせず、鉄と木で作り上げた弓に、麻の弦、世間では何人引きとか言われる強い弦を張っている。

何度か引いて壊したが、この手の弓は引くよりも押した方が良いとわかり、それ以後はその様に使っている。

 

この頃は、調味料は大したものは存在していない。しかし、干した昆布で出汁を取る知恵はきちんと存在していた。

鳥は捌かれて、昆布出汁で煮られて食された。

私達の家族は、別に菜食主義ではない。本性の狐の姿だと、完全な肉食獣だし、人間の姿でも肉は食べる。

しかし、他の人が作った肉の料理を食べる事はなかった。後に、その理由を知ったが、それは知らなければよかったと言う納得の仕方でもあった。

 

さて、この頃に入って来た仏教と言う面倒な教えでは、殺生がいけないことだと記されているのだそうだ。私は、生涯仏教と言うものを良いと思ったことがない。

所詮は、インドの周辺国が、インドを包囲する為に作り上げた宗教であると、私達は知っていたからだ。

その後に、様々な仏教を信じる指導者達がやらかした奇行や醜行を見ても、到底信仰に値するものだとは思われなかった。

後々で知ったのだが、この宗教は、本来的には日本には入れてはならない宗教だったと言う事もある。明白に先祖供養を否定している。

その点が、神道の教えと真逆なのだ。

私達は、実際問題としては神道を信じていたのだと思う。と言うか、生まれた頃に存在していた宗教とは、それしかなかったのだ。

まあ、そんな事を深くその時に考えていた訳ではない。冬でも元気に生活している雉や山鳩に感謝しつつ、美味しくいただいたものだ。

姉は姉で、最近は背中に担ぐ薬草の箱を拵えて、それの区分け方法とか、乳鉢や摺り上げる道具を手作りしている。雪が溶け始める時期に備えているのだ。

母は父が作った針を使って、いろいろな袋や細かい目の網を作っている。この地方で手に入る布は高品質だった。麻も柔らかく加工されている。

九州では、服装に気を付けた事のない家族が、ここでは当時の品質内では贅沢な装いをし始めている。

私達は、ここでの生活を本当に楽しんでいた。幼い私に取って、最も幸せな時期だったかも知れない。

 

やがて雪が解け始め、山間部のために日の出が遅く、海が近くに開けて、日没が遅いこの地は独特のペースで時が過ぎて行く。

もうすぐ、また交易が再開されると思われた頃になっても、交易船はやって来なかった。

代わりにやって来たのは、復員となった兵隊達だった。邦津で養いきれなくなった兵隊が、出雲や丹波に帰って来たのだ。

ざっと見て3千人以上の兵隊が屯所の内外に見える。須佐に残るのは少数だが、隠岐の島、出雲、丹波、但馬、因幡から動員されていた兵隊が途中の食糧を調達するためにここで待つように言われたとの事だ。

その後に、船が2隻程到着して、それらに那津から届けられた食糧が配給される。

九州の兵隊は、現地で補給を受けて随分な数が解散したとの事だ。

現在の任那では、駐屯している兵隊が2千まで減少している。

国境の警備と、治安維持以外には役に立たない数に減ったのだ。

私達が居たのが少し前だが、その時には7千人程の日本人の兵隊が居て、那津には更に沢山の兵団が存在していた。

那津も閑散とし始めているのだろう。恐ろしい程に状況は変化している。

 

考えてみれば、私が生まれてから、ここまで政治的な状況が変化した記憶はなかった。

大和の国で政変があり、武烈天王が継体天王に取って代わられた際も、言ってみればそれは日本国内に二つある大和と名乗る連合政府の中の片方に起きた政変でしかなかった。外国とは思えないが、自分の国でもなかったのだ。

(この100年以上後に、畿内の大和と、九州の大和が盛大な反目の末に、唐の都で正統を巡って大喧嘩を行った事が、旧唐書にキッチリ記載されている)

 それはさておいて、今回の任那からの撤退騒ぎは、気楽に外征を行って成功して来た古代日本の大きな転換期だったと言える。

単なる部族連合でしかなかった朝鮮半島の国が、まともな文化文明、何よりも法制度を備え始めて、強大化した結果の、当然の帰結だったのだと思う。

何よりも、朝鮮半島の為政者に先見性があったのは、インド包囲網の方便であった仏教の移入をすんなり認めた事だったろう。

それの音頭を取っていたのは、多分古代の中国だったのだろう。物語に語られる三蔵法師がこの頃はまだ存在していない唐の長安から出発する随分以前に、既に朝鮮半島には仏教が伝来していた。

中国国内でも、周辺国でも、この頃には仏教を研究する動きが強く起こっていた。

この後に、近畿を右往左往する私達家族にとって、仏教とは面倒なだけの宗教に思えたものだ。人の心が変わって行く。その事に、私達家族は漠然としたもの以上の不安を覚えたものだ。

しかし、それと共に起きた様々な政変を経験して、私達の運命にも、大きな変化が訪れるのだ。

それはまだまだ先の話。今は、復員して来た兵隊の世話を、須佐の集落全てが行っていた。

 

そんな中、三隻目の船が到着し、更に食糧が配給された。その船には便乗して来た貴人が居た。

彼は、供回りの者を多数連れており、秦氏の館に挨拶に詣でた。

仕立ての良い絹の服を着て、布の靴を履いている。パッと見て贅沢な男の貴人だった。

いかめしい顔をして、大きな直刀を佩いている。柄も鞘も豪華に仕立てられている。

後でわかったのだが、彼はこの須佐を古くは根拠地にしていた大豪族。蘇我氏の貴人であった。