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悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語6

私達は、こんな降ってわいた様な災難に見舞われながらも、何とか出雲に辿り着いた。

出雲の国は、当時は製鉄をほとんど独占していた。

製鉄と言っても、その鉄はほとんど武器だったのだが。

 

九州で発生した古代の神道、それがアマテルを頭にした宗教勢力だった。

そして、出雲はスサノオ、武力と武器を提供する勢力。

それらが誓約(うけい)を結んで、日本を統治する。古代からの伝統だ。

アマテルの側は皇室の男を天皇に据える。スサノオの側は出雲の女を皇后にする。

不戦条約でもあり、厳密な役割分担でもあったのだろう。

しかしながら、これは結構危ない橋でもあったのだ。

アマテルと言う宗教勢力は、神道を奉じている。けれど、出雲の方は、大先祖の大国主あるいは大己貴も蛇であり、その兄弟と言われる三輪の神の大物主も蛇である。

これらは記紀伝承でも語られているとおりだ。

実は、同じく記紀に書かれているスサノオの妻と言われる櫛稲田も蛇である。

櫛と言うのは、そもそも蛇の舌を表すものであり、それが稲田と結びつけば、それは青大将とかの、稲田の土手に住み着く蛇と言う事になる。

信仰そのものが根本から違うのだ。蛇神信仰が強い土地柄と、祖霊を祀る勢力と。それらは、古墳時代に本格的に衝突する事になる。

まだまだ、この時点では出雲と大和の関係は微妙ではあっても、誓約を守り合っていた。

これが激変するのは、7世紀も半ばを超えてからの事だ。この時点からまだ200年程も後の事になる。

 

父はここで武器を初めて作り始めた。木炭をうちわで扇いで過熱し、玉金を灼熱するまで熱し、金床の上で叩いて圧延する。まだまだ、この時代では高温で精錬される鉄器は少ない。

しかし、父の能力もあって、作り上げられる鋼は素晴らしいものだった。

鋳鉄は、この時代にも、後世でも父は手掛けなかった。単に鋳型を作るのが嫌いだったのだろうけど。父は、農機具さえも手で叩いて作っていた。

器用にソケット部分を作り上げる手際には、手伝っていた兄が感嘆する程だ。

鉄製の鎌や鋤を彼はドンドン作って行った。直剣も作ったが、これは少数だった。

父が好きなのは、実は鏃や鉾などの、ソケットの付いた武器だった。

どれ程に火であぶられても、全く痛痒を感じない父は、そもそも鍛冶屋として最高の存在だった。

 

出来上がった製品を、砥石で研いで更に磨く。

実は、私達はもとより、父すらも知らなかったのだが、この砥石と言う物は日本以外の国ではほとんど産出されない物だったらしい。

日本人は、それをずっと後になって知ることになる。日本人なら、誰でも持ち歩いて、気楽に使ってる代物が、世界レベルでは貴重品だったと言うのだから驚きだ。

ともかく、出雲での生活は突然雨が降って来る事が多い以外は、とても快適だった。

なにしろ、人々はおっとりしていて険悪な雰囲気を持たないし、交易で栄えている土地柄でもあり、珍しい外見の私達に対しても敵意や疑いを持たないのだ。

夜になると響いて来る太鼓の響きも、ここが信心深く、穏やかな土地なのだと教えてくれる。

しかも、ここらの人達は顔に刺青をしていないのも嬉しかった。私達は、ここでは普通の面相にカテゴライズされていた訳だ。本当にありがたい。

 

この頃は、出雲でも秦氏が養蚕を行っていた。解除率の高い、大きな繭を作る蚕が育てられており、厳しく囲われた桑畑の中で養蚕が行われていた。

秦氏の子飼いの兵隊が、夜まで篝火を焚いて警備している。

特に、網を全体に掛けられた場所、カイコガに桑の木に産卵させるために作られた場所等は、一角全体に兵が張り付いて厳重に警備されている。

迂闊に近くを通ると、そのまま番所に引っ張られて行く程に警戒は厳しい。

産卵が済んだ後は、一転して彼等は優しい人達に戻る。近所の子供に桑の実を配ったりしてくれる。口の中を紫色にして甘い果実を食べている子供達と一緒に唄を歌ったり。

任那で私達に乱暴しようとしていた兵隊とは、月とスッポンの差がある。

そもそも、この地の兵隊はニンニクを齧ったりしなかったし。

 

そんな強面の彼等であるが、父の作った武器を手にして、鼻高々だったのである。娘の私の事も彼等は知っており、桑畑の管理も行っている彼等は、鋤や鍬、鎌等の素晴らしい出来栄えを毎度褒めてくれたものだ。

秦氏の貴人達も、私の母に絹の反物を贈って来たり、弓で射た雉を贈ってくれたりとかで、本当に親切にして貰った。

次第に父は鎧や冑も作るようになっていた。小さな板を張り合わせて縦横に留め具が付いた桂甲では取り回しが不便と言う事で、父はそれらを嵩張らない様にする改良を重ねた。

金具や紐を改良して、すぐに着れる様に直し、走っても鎧が揺れない様にした。

冑については、視界が良く、着用していても疲れない作りに直した。

それも兵達には好評で、秦氏の貴人達も喜んだものだ。

 

父は、ともかく出雲では腕を振るいまわった。評判はうなぎのぼりで、私達は幸せなこの地での生活に満足していた。

地元の子供達とも仲良くなり、私自身も満足だった。この地の子供達は、非常に俊敏で、しかも良く働く子供達だった。水も豊富で、山間部であっても平野もちゃんとあるので、食物にも困らなかった。

姉は例によって薬師の下働きをしている。野山の薬草にも詳しくなり、地元の女性達と出掛けては、薬草を採取していた。

なによりも、この地では姉を付け狙う馬鹿な男が居なかったのもありがたかったろう。

地元の女性達は、姉の事を本当に頼りにしていた。特に、子供を助けて貰った母親達には、姉を見かけると両手を合わせる人まで出ていたのだから。

一年はあっという間に過ぎ、二年目がやって来た。

秋が過ぎて、冬になる。この地の雪は深い。干しておいた大根や蕪を食べ、茹でた大豆で納豆を作りながら、私達親子は団欒を楽しむ。

けれど、やはり私達には同じ土地に居着く事はできない。特に、育ち盛りの筈の私が一向に背丈も伸びず、幼いままでは・・・。

二年目の初めに、次にはどこに行くかが話し合われた。この幸せな出雲の地を離れて、またどこかに行く。耐えがたい何かがあった。

 

この頃に聞こえて来た噂があった。何でも、任那からの船便に問題が生じているとの事だ。

新羅は、あれから方針を変更した模様で、ひたすらに隣国である百済の各地を略奪して回っているらしい。

南下して、平壌を攻撃し、大戦果を挙げたのだとか。

各地で、日本人の略奪に怒りが生じており、徴兵も盛んで、僅か一年少しで朝鮮半島の情勢は大きく変化したとの事だ。

百済と新羅は本来は同盟関係だった。しかし、今回の日本人の王城襲撃で百済は何の援軍も行わず、仲裁すらしなかった。

そして、高句麗が百済を攻めた際に、怒れる新羅が横槍で百済を叩きのめしたのだ。

しかも、今回の日本人の襲撃については、どうやら王城の兵隊は高句麗との交戦の為に動員されていたみたいで、それらが高句麗から帰還して、そのまま百済に襲い掛かったのだとか。

何とも大変な時期に私達はあそこに出向いていたものだなと。嘆息するしかない。

 

やってしまった日本人達は、後悔したものの手遅れである。

このままでは、新羅と任那が全面的に激突すると予想された。地の利はもちろん新羅にある。

孤立した立地、まさに背水の陣と言える。そんな所に大兵力を置いていても、結局は無駄死にするばかり。

なにしろ、食糧の自給自足すらできない土地なのだ。そんな所では一度負けたら置いてある兵隊は全滅する。

この時点で、任那は詰んでいたのだと思う。新羅を本気で怒らせた。しかも無益な戦いでだ。(ちなみに、私達が見た戦いは、どの歴史書にも載っていない。)

好き放題に掘りまくっていた鉄の山も、好き放題に浚っていた砂鉄の川も。それらは全て今後は日本国内で獲得するしかなくなってしまうのである。

多分、百済の差し金だったろう、王城の戦い。百済としては、自分達は同盟を保持しながら、日本人が徹底的に新羅の王城を破壊する事を望んでいたのだろう。

そして、空の都は確かに陥落した。その後に、日本人は持ち前の淡白な性質を発揮して、物を略奪しただけで、人を拉致しただけで引き上げた。裏で糸を引いていた方はガッカリした事だろう。

 

悪行の報いは訪れるとは限らない。しかし、愚行のツケは必ず因果応報で訪れる。

そんなこんなで、任那に残された時間は後10年程となった。

次は大和の国に行こう。父はそう言った。

 

その話題が出た日、私は寝床の中で声を殺して泣いていた。

幸せな日々が、またしても終わる事に耐えがたい思いが溢れた。