悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語4

往路は人の身なりで、復路は獣として野山を走る。

私達は目的を果たせないと悟れば、その瞬間から果断に来た道を引き返す。

私は自分も含めた家族の変化の術について、この時に疑問を抱いた。

もっと醜い姿に変化すれば良いのではないか。そう思ったのだ。人が興味を引かない程度に手加減して変化すれば良いのではないかと。

 

しかし、私の意に反して、私の家族は苦笑しながら、それはできないのだと口を揃えた。

私達、神狐は異物を体内に宿せない。刺青の染料もそうなのだ。痘痕や吹き出物も同じく、異物の反応であり、それを私達は体感できない。だから再現できない。

また、美しくない外見にも私達は馴染めない。醜い外見に変化する事を、私達は心のどこかで拒絶するのだそうだ。

では、これからもこの外見のせいで問題を起こしながら暮らすのか?

それで良い。そう父も母も答えたものだ。

その時の私は、まだ変化した自分の姿を単なる仮初の形であると思っていたのだ。しかし、それも私達の本質であり、それを自分で汚す事はできないのだと。

そう得心できたのは、それからずっと後の事だ。

 

この旅に関しては、2年で終わったとだけ言っておこう。

帰りの道では、何と新羅(しら)の王城が任那の兵団に取り囲まれている場面に出くわした。

虐殺とかは起きていない様だが、例によって女子供を捕虜にする非道は当然の様に為されている。こんなところに人の姿で現れても良い事は一つだってない。

そもそも、私達は中国系の移民だと言う触れ込みなのだ。そう言う外見に見えない事もないのだし。

 

山の中から私達は一部始終を見ていた。

土で出来た家から、木製の家具その他が持ち出されて、土塀の門に次々と投げ込まれ、それに火が放たれる。

王城に籠城した兵隊は困り果てている。多分、応戦用の弓矢にも不足しているのだろう。射手が既に消耗し果てているのかも知れないが、。

大した高さも無い塀の上に、この状況で立つなど論外だ。今の時点では自殺行為だ。

しばらくすると、門は焼けてしまい、そこに木槌を持った兵隊が押し寄せる前に、城壁の上に身なりの良い男が立ち上がって何事かを叫び始めた。

どうやら、降参するようだ。

 

その後は、王城の近くで攻めて来た兵士達に食物が振る舞われて機嫌を直す様に懇願が行われる。

日本人の方は、勝って気を良くし、捕虜も沢山得た。食糧も得て目的を達したのだ。

身なりの良い者達が多数、日本人の兵団の中に出向いて話し掛けている。腸は煮えかえってるだろうに、物腰は丁重だ。なけなしの食糧と酒が振る舞われている。

 

ともかくも、日本人達は勝った。次も勝つつもりだろう。横柄な物腰が、次の来襲があるだろう事を、なによりも雄弁に物語っている。

そんな感じで、日本人達は散々に略奪し、威張り散らし、武器を持って王城内を闊歩した後、数日後には撤退して行く。

王城の者達はどうやってこの冬を越すのだろう。そう思うが、私達にできる事はない。

 

きっと、この戦いで新羅の王は、単独では日本人に対抗するのは難しいと悟っただろう。しかし、後ろ盾に高句麗が付いてくれるとも思えない。ならば、唐国か?これも今は大内乱状態で頼りになるまい。

主力の兵団が出撃したならば、毎度こんな風に日本人が攻めて来るとなれば、まともに軍事作戦もできないだろう。

それどころか、この事件の50年後には統一なった隋帝国が、高句麗を攻めるような事になる。そして、私達はその際にも半島に居合わせる事になるのだ・・・・。(なんてついてないのだろう。)

 

日本人達が去った後に、私達はちょっとした発見をした。

新羅の人達は、地面に食べ物を埋めていたと言う事だ。しかも大規模に大量に。

そのまま埋められた硬い木の実、発酵食品の先駆の様なあまり食欲の湧かない代物の壺、木箱に入れた奇妙な何かも多数掘り出される。

乾燥させた粟や稗、高粱とかの日本人が好まない雑穀、何かの幼虫。しかし、これでも王城に残った者達の食糧としては不足しているだろう。

 

ともかく、もう一度任那へ帰ろうと言う事で家族の意見は一致していた。こんなところに居ても、得るものは何もない。

そもそも、首都を略奪されて、気が立った人達の中に、どこから来たか不明な無力そうな旅人がひょっこり現れて良い事があるとも思えない。

そんな私達の苦慮をよそに、日本人達は、途中の村落でも略奪しながら、ダラダラと任那に帰って行く。

後の日本人の軍隊に見られる規律は、この時点の日本人には全く見受けられない。単なる烏合の衆であり、武器を持った暴徒でしかない。

途中の村で捕虜を得て喜び、行く先々で略奪をして喜び、歩きながらニンニクを齧っている様な粗暴な兵隊だ。飲める水があるとなれば、平気で隊列を離れる。しかも、隊伍それ自体が水を求めて水場に走って行く。これから200年経たないと、まともな武力集団は日本には生まれないのだ。

私達一家は、のろのろと動くだけの雑然とした軍隊を追い抜いて、風の様に任那の領域に走り込んで行く。

 

帰ってからわかったのが、日本人の中には、現在の自給自足ができない任那の現状を改善しようとする動きがこの時に起きていたことだ。

根っこの部分を藁で包まれた苗木が沢山運び込まれている。当然日本からだろう。

母は、多分栗の木なのだろうと言っていた。なるほど、栗の木は、日本ではあちこちに植えられているが、半島ではほとんど見かけない。

そもそも、日本の栗はここで育つのか?父母は思った様だ。

結局、日本から持ち込まれた栗は、ここでは育たなかったのだろう。育ったのだとしても、後に任那の領域内で栗が生い茂っているのを見る事はなかった。

日本では、母方の親類がこの時点の5千年前くらいに、栗の植樹が始まったのを見ていたそうだ。その音頭を取っていたのがクニトコタチと言う人で、後に日本書紀にも名が記された皇室の大先祖なのだとか。

クニトコタチは、12人の身内と共に、おせっかいにも方々を回って、栗を植樹して回っていたのだそうだ。

けれど、ある時に彼は出向いた先から帰らずに行方知れずとなった。途中で行き倒れたか、闇討ちにあったのか。それもわからない。

ともあれ、随分後になって、朝鮮半島の自生種あるいは中国から入った改良品種の栗はこの地に根付く事となる。現在も残る平壌種と言う甘栗として食する品種だ。しかし、この時点では、そんなものは存在しなかったのだ。少なくとも、私達は見ていない。

私も兄も、植樹の為に元気に働いた。そんな最中に、捕虜を沢山連れた兵隊達が戻って来たのだ。生殺与奪を思いのままにされる捕虜達はどんな気持ちだったろうか。

捕虜の中には、いち早く日本人に迎合する者も現れた。自ら、顔面に下手くそな入れ墨をお互いに入れ合う新羅の民が散見される様になる。彼等は、捕虜ではあったが、心は日本人になりたがっていたのだろう。当時はあの呪うべき儒教は、日本にも半島にも流入していない。顔に刺青を入れたり、自分で自傷同然の装飾を身体に施したりすることに抵抗がなかった。

中国大陸との交易もまだまだ大した事は行われていない。主に、大陸側から商人が時たまやって来るのであり、来るのは任那までだった。

日本人が大陸に出向く事は稀であり、出向いても顔面の刺青は大陸では罪人の証だったのだから、歓迎された訳がない。

日本人が大きく変わって行くのは、大陸に商圏を求めた時からだと私は思っている。しかも、それは大きな混乱をもたらす事になるのだ。

しかし、その兆候は今は全く現れていない。思えば、この時期の日本が一番日本人として最も純粋な時期だったのかも知れない。