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悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語3

初めて行く朝鮮半島。

今も忘れられないのだが、当時の朝鮮半島南部は、日本人が沢山住む別天地だったのだ。

 

私達の両親は、その頃は日本の里で陸稲を育てる小作を行い、時には鋳掛も行い、時には製鉄や青銅の鋳造も行った。

それでも、長い間は同じ所にいられない。

子供だった私達も、いろんなところで働いた。塩田や水稲の草取り。子供でも何でも当時は労働力だ。だから、私は未だに現代に馴染めない。

子供がお客様で、それを接待する為に誰か、特に教師が奉仕しているとか。

そんな”お子様”と言う概念には、懐疑を超えて嫌悪すら抱いてしまう。

 

それはさておいて、私達はしっかり働いた。働くのが好きだったからだ。

姉は手先がとても器用で頭が良く、兄は力が強く脚が極端に速かった。

私はようやく外見が6歳程度に育ったばかりだった。この後100年で10歳ばかりの外見になり、手足も伸びるのだが、今の時点では背丈も足りず、手足も短かった。

塩田で私は塩から小石や砂をより分ける仕事をした。兄は石垣積みや泥で堤を作った。

姉は薬師の下で、下働きしていた。

父には特別な能力があった。それは火炎に関する力だった。彼が見つめると、金属は熱くなり、生木も乾いて燃え上がる。それは危険な力だったに違いない。

けれど、父は自分の力を危険だと知悉していた。だからこそ、金属を扱う仕事を好んだのだろう。

姉の能力は、後に私が手に入れた力と同一のものだった。毒素を消し、病とりわけ痘瘡を治癒する力があった。だからこそ、薬師の家では常に重宝された。

姉が看病した病人はその多くが快癒するのだから。それ故に祈祷師が割を食う事になった。

「あの親子を見ろ。身体に傷一つなく、シミやホクロもない。子供達も外で仕事をしていても日に焼けもせぬ。揃ってアヤカシであるやも知れぬ。」ある時にそう、讒言される事となった。

 

真面目に働いて、贅沢すらしない清貧の家族に対しての仕打ちではない。しかし、世の常はそんなものだ。自分の不都合を他人が被るべきと思っているのは、現代だけではない。古代の頃は、人は今よりももっとおおらかで、あからさまな欲を表現していた時代でもある。

警戒怠らぬ私の家族達は、その動きを早々に察知しており、少ない荷物をまとめて、さっさと逃げ出す事にした。

当時、私達は現在の大分県に住んでいた。海岸沿いの開けた場所だった。

そこから逃げ出した先は、現在の福岡県だった。山の中を狐の姿で走り抜け、途中で現在の熊本県に出て、再び森と山を通り、福岡に走り込んだ。

 

当時の日本には、まだ武士と言う者は発生していない。ほぼ全ての兵士が傭兵であり、徴兵された期間限定の戦士だった。

それらが現在の福岡県の大宰府と後に呼ばれる場所に駐屯して、訓練や警備を行っていた。当時は単に「なのつ」と呼ばれ、漢字が導入されて後は「邦津」と呼ばれていたのだが。

以前から私達は、数年なりとも、外国に赴き、その後に別の場所に行こうと決めていた。毎度逃げ出す算段をしながら、どこかにしばらく定住する。

何ともやりきれない人生の曙だったと、今にしてみれば思えてしまう。

 

母の能力は、これは多分人間達が狐の化け物にはありがちなものだと思うだろう能力だった。

人の心を操るのだ。しかし、後に見た女狐の様に人の心を壊して操るのではない。単に暗示を掛けて、好意を掻き立てるだけの能力だった。人を極端に親切で、物分かりを良くし、無欲にしてしまう力だ。実際は、善良化の能力なのだと思う。

困った人を、相手が見過ごせなくなる。不遇な境遇の人を、相手が助けずにはおけなくなる。

多分、この力無しには、私達は揃って人里に棲めなかったのではないだろうか。

 

ともかくも、兵達と共に、まずは壱岐を通り、次に対馬まで辿り着き、その後に天気を見て半島に渡る。何で台風の多い秋に集中して船を出すのかは謎だったけど、私達は数日で後に朝鮮半島と呼ばれる任那まで辿り着いた。

お役御免で大喜びの兵隊達と鉄鉱石、目隠しをされた大型犬程度の大きさの馬匹を積み込んで船は帰って行く。お決まりのコースだ。

私達は、袋一杯の保存食(鍋で水分を含ませた後に焼いた赤い米と、後の味噌に相当する原始的な納豆を干した塊)を家族で手分けして運び、現地で鉄の地金を作っている人達のところまでトボトボと歩いて行く。

わざとゆっくりと進んだのは、岡の上からピョンピョンと荒れ地を凄い勢いで進んで行く家族を目撃されたら、それこそ目的地に着いた途端に大荒れの展開しか期待できなかったからだ。

半島の南部は、森林こそ当時は多かったが、多くは針葉樹であり、建物には適していても、食料を提供してくれるわけではない。

本性を現して、狩りをしようにも、ここは獣それ自体が極少ない土地柄だった。

 

定住して半年、父は砂鉄を掬って真鉄の玉に換える作業に没頭して、家族をほとんど構わなかった。母は、常に目立たずにひたすらに付近の人達との好を得る事に集中している。

姉は例によって野山を歩いて、薬草になりそうな野草を求めていた。けれど、女の少ないこの土地では、小娘でも一人歩きは危険だ。

姉が山や野を歩くのを追い掛けて、誘拐目的でストーキングし、斜面や稜線で無理な追跡をして、転げ落ちて死んだ者も、一人二人では無いらしい。まあ、自業自得なのだが。

そして、ここらは獣用の食料もだが、人間用の食糧も乏しかった。任那に派遣されてきた兵隊達の仕事とは、もちろん鉄鉱石製造施設の防衛。もう一つは、その敵国(実際は被害者っぽいけど)からの略奪にあった。

新羅と言われる国、この国は日本人の子孫が統治する、外国の国家だ。そうと知った上で、どう言う訳か、日本人は外国人の国を攻めずに、日本人の統治する国と争っていた。

何故かは私にもわからない。住んでいる者にわからないのだから、誰にもわからないだろう。百済と言う国が外交が上手だったのか、日本人の外交が下手だったのか、どちらか、あるいは両方だろう。

 

1年と経たずに、父はここで出雲式の砂鉄を使った玉鉄の作り方を得心したらしい。

しかし、今回の旅は5年と最初から決まっていた。だから、暇乞いをしてから陸路で唐国に行くことになった。

当時の唐国は、実際は後日にそう呼ばれる国は存在していない。五胡十六国時代が終わっての南北朝時代と呼ばれる大混乱の時期を経て、遂に漢民族が単独での大陸支配を断念せざるを得なくなった時期だった。

途中に通った、燕国、後に北京ができるあたりは、この頃は全く本格的な都の造営がされていない。辺境の村や町でしかなかった。

この時点で私達が行けたのは、ここが限度だった。今も昔もこの辺りは荒れ地が90%、原野ではなくて荒れ地が90%なのだ。

そこを抜けて行きついたのは大河だった。しかし、その大河の水は黄色い泥の水。誰がこんなに凄い自然破壊をやらかしたのだろうか。責任を問おうにも責任者はどこにも居ない。

渡す船も無く、橋など期待すべくもない。単に荒れ果てた土地が延々と続く無法の世界があった。

引き返そう、そう言いだしたのは兄だった。豊富とは言えない食糧もそうだが、ここらの住民は警戒心が極々強く、言葉に馴染む前に襲撃を受けそうだったのだ。

誰からも庇護されない、見るからに麗しい外見の妻と娘。ちょっとした武力を持つ者ならば、夫を殺して奪おうと考えても不思議ではない。

現に、道すがらの関所で私達を凶悪な目で見つめる兵士や商人たちは沢山いた。

そして、遂に関所から騎馬の兵士が数名と身なりの良い士官らしき騎兵が武器を持って追い掛けて来る日がやって来た。

白昼堂々の狼藉を企んだ者は、しかし目的を遂げなかった。騎乗していた馬が突然に転倒してしまったからだ。父の仕業であった。

馬から投げ出されて大怪我を負った騎兵は、取り巻きの兵士に収容されて、手当の為に連れ戻された。私達は何食わぬ顔でそれを見ていた。

愚かな男は、腕と肩を酷く骨折していた。姉もそんな男に慈悲深くはなれない様で、手助けしようともしない。彼は戦士としては二度と再起できないだろう。自業自得だ。

哀れに思ったのは、その男を乗せていた馬の方だった。馬には何の罪も無かったのに。

 

私達は、人の心を持っているとは言え、本性は獣だった。獣は必要な事を必要なだけ行い、それで満ち足りるし、必要な事ならば何であろうと行う存在なのだ。

自分の身を護る為の戦いは、人であろうと獣であろうとそれは許されて然るべき行いなのだ。

何の悪事も働かぬ、ただただ平穏に暮らす事を望む存在。その細やかな願いを踏みにじろうとする者に対して、私達は一切の憐憫を感じなかった。その頃は・・・。