妹狐の物語2
私自身の略歴を簡単に話して置こう。
私が生まれたのは、現在の暦で5世紀の頃だった。
それよりも先に生まれた姉と兄。姉はたえと言う名で、兄ははせと呼ばれていた。
父母はそれぞれにかぬちべ、やめと名乗っていた。
全員今の九州で生まれた。当時の九州は現在の大分県から宮崎県が中心だった。
けれど、私の母と姉は現在の福岡県で生まれている。兄は宮崎県出身と言う事になるが、姉とは凡そ100年程も歳が違う。
私も現在の宮崎県に生まれた。水の綺麗な場所で、私は幼少の頃をそこで過ごした。
さえと言う名前を私は両親から貰った。
姉と兄が生まれた時もそうだったと聞くが、私の時も両親は人の姿を捨てて、野山で私を育てる事となった。
神狐は、生まれてから最低でも10年程は人里からは離れて暮らす必要がある。
理由は、幼い神狐が自分が何者であるかを理解していない事が非常に危険であるから。
そして、神狐が人に変化できるまでに最低それ位の日々が必要だからだ。
父は、その名前のとおり、鍛冶屋の仕事をしていた。若い頃に母と二人で村の鍛冶屋に奉公していたのだそうだ。
ただし、長く土地に居着く事はできない。二人とも人間の様にすぐに年老いたりしないからだ。
そして、子育ての際には人里から遠ざかる必要がある。その後も転々と土地を変え、時には面相を変えた。
しかし、神狐の変化能力にも限界はある。年恰好だけはどうしても変化できないのだ。
若い狐は若く、年老いた狐は年老いた姿にしか変化できない。男女の性別も超えられない。なんと不便な神通力か。
(後々に、私は更に困った制限を受ける事になるのだが、それはずっと後の話だ。)
勢い、私達は流浪の旅を繰り返す事になった。
特に、小娘二人と小僧一人が何年も歳を取らないと言うのは、人目を引きやすく、その人目とはいずれ甚大な危険となって襲い掛かって来るのだから。
おまけに、常に流れ者の鍛冶屋でいる事もできない。家族構成も変えられないのだ。
また、私が生まれた頃の日本人は、今からは想像も付かない外見をしていた。特に顔に刺青をする風習があり、父母は結構困っていた事を覚えている。
神狐はそんな事をしないし、できないのだ。どんなに頑張っても、私達の身体には異物を仕込む事ができない。
そのせいでいかなる毒素も受け付けないが、同じく刺青も次の日には埋め込んだ染料が顔から抜け落ちてしまうのだ。
仕方がないので、父母は自分達を唐国から渡って来た鍛冶屋ですと説明していたのだ。まあ、これくらいの嘘は仕方ないものだろうか。(吊目気味の目元も、この嘘には好都合だった。今もそうだが、当時も日本人は目が大きくて吊目は少なかったのだ。)
方々の村の人達の役にも立ったのだし、それでオアイコかなとも思う。
当時の日本は、既に鉄器時代に入っていた。大量の鉄鉱石を朝鮮半島の拠点で掘り、環境など気にもせずに鉱山を掘りまくり始めていた。
そうして仕入れて来た地金を、あるいは山陰地方で、あるいは九州地方で製鉄していたのだ。この当時は、まだまだ近畿地方は後進地帯だった。
九州の各所は、兵隊(つわもの)達がそこらに溢れていて、それらが任那と呼ばれる日本の橋頭保に動員されては、船で出掛けて行くのだ。
壱岐や対馬まで往きつければ、後はどうにでも半島には渡って行ける。
私達も何度も半島には渡ったものだ、その度に酷い目に遭ったのだが・・・・。