悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語8

その頃の私の外見は、大体6歳から7歳位の外見だった。

手足は細く長く、大体1000年以上先の外見であったと思う。

この頃の私は、自分で言うのも何だが、可愛い盛りで、既に12歳、当時の結婚可能な年齢に達している姉とはまた違う意味で人目を引いた。

ともかく、可愛がられたのだ。いろんな人達から。

今回やって来た、髭もじゃの大男、蘇我氏の貴人の目に留まった私は、父と共に彼の館に招かれて、家族ともども歓待された。

単に彼が道を通った際に花束を渡したからではなく、評判の鍛冶屋の娘だったのを貴人は最初から知っていたのだろう。

 

蜜の飴や、後の世に水菓子と呼ばれる果実の類、麦芽糖を使った雑穀や干し納豆の菓子を貰い、甘酒が注がれる。

 

後日には、食事にも誘われた。新鮮な鱠に酢や塩に昆布で味を付けた物。後には失われた発酵食品に乳製品まで振る舞われる。

6世紀も半ばのこの頃には、既に日本には蒸し器が一般化しており、餅作りが普及していた。

当時の糯米は、現在の赤米や黒米も含んでいる。紅白や白黒の餅があり、それらは発芽した大麦と共に温められ、更に煮込まれて麦芽糖になる。

私も何度も麦芽糖を作る手伝いをしたものだ。今回の復員兵達にも、その甘露が振る舞われる。大豆の粉と混ぜられて、美味な携帯食糧が作られる。

力自慢の出雲男と、やはり逞しい復員兵達が力を合わせて餅をつきあげて行く。

船から運び出された単なる糧秣、単なる食糧が、粗末な穀物が想像もつかない程の美味に短時間で変化して行き、歓声をあげる兵隊達に手渡され、その場で振る舞われて行く。

私達もそのおこぼれに存分に預かったものだ。

最後に昆布出汁と塩、様々な海藻や切った魚で羹が作られ、膳に添えられた餅や七草が入れられる。私は満喫した。小さな胃袋なのが残念だった程だ。

 

そんな食欲中心の私をよそに、姉と母は貴人の身内の賢い女たちと談笑し、父と兄は貴人相手に自作の先進的な武具や武器の話で盛り上がっている。

日本人は、今も昔も子供に甘い。話の中で興奮してしまった兄は、食事中に館の庭を遠慮なしに横切って塀を飛び越え、家まで疾走して自分の弓を取りに戻ってしまった。

そんな無作法を、豪快に貴人は笑い飛ばし、元気の良い子だと褒めたりもした。

やがて、土埃に汚れた兄が館の門番にやはり笑って通して貰い、弓と矢、標的にする木の板まで背負って帰って来た。

貴人に弓矢を手渡して、試しに使ってみろと嗾ける。

その弓は、例の引けない弓であり、力の強い貴人ですら引く事は適わない。

兄は得意満面で弓を受け取って、押してすぐに放った。

貴人もそれを見て、弓を押して矢を放つ。的まで十間ばかりの距離だが、当時の弓矢は射程が二十間そこそこ、それですら命中率は大した事がない。

ところが、この弓はともかく十間ならばほぼ必ず当たる弓である。飛ばすだけなら三十間は楽なもの。しかし、矢は長さも重さも足らず、鳥打ちには良くても、武器としてはどんなものなのか。

貴人は考え込んで、不可思議な造りの弓を手で弄んでいる。

兄と父は、同じような弓ならまた作りますのでと言って、貴人に弓と矢を渡した。

貴人は感謝して受け取り、私達一家に褒美を与える様に下人に申し付けた。

父は思う所があったらしい。壊れやすく、乱戦で邪魔になりやすい鉾ではなく、槍の原型の様な武器の利点を説明した。

これならば、まとまった数の徒歩兵が間隔を開けずに戦える。鍬の様に使う鉾ではなく、矢の如く刺す槍は剣を持った兵隊にも有利に戦えると。

本音では、父は単にソケット付の武器をいろいろと作ってみたかっただけかも知れないのだが。それがたまたま使い勝手の良い武器になったと言うのが本当なのだろう。

 

話は更に盛り上がり、興が乗って、貴人を引き込んでしまった。当時の日本人は異様に興奮しやすい人達が多い。後世の落ち着いた日本人観は、古代には当て嵌まらない。

実際に、館の下人と衛士に並んで貰い、棒を手にして鉾と槍の戦いを演じて貰ったりもした。やり過ぎなのだろうが、素面でここまで興奮できるのが当時の日本人だ。

 

そして、模擬戦は本当に実戦的なものとなった。

狭い所では、並んだ槍が圧勝したのには、皆が驚いたものだ。野戦以外では、槍が強いと知れた。建物の中では、剣よりも強いとわかった。高さが違う場所でもだ。

戯れから始まった模擬戦闘の結果は、頭の良い貴人に強い印象を与えた。

「もっと沢山の事を教えて欲しいのじゃ。我は汝らの話をもっと聞きたい。」彼はそう言った。「汝の顔ももっと見たいでな。」そう言って頭を撫でてくれる、大きな顔と大きな身体の優しい武人。

齢100歳になろうとする神狐の私が、この人間の男には本物の好意を抱いた。

私は何故神狐に人を殺すなと言う禁忌があるのか。その理由の一端を知った。

これから4世紀も後に、私はこの貴人の面影のある武士を見る事になる。

その人には、家族全員が心酔し、彼の力になって行くのだが。だが、この時点では、私も家族も、やがて来る別れの予感の中で、今日のこの日を喜ぶ事だけを考えていた。

 

「さあ、我は近日の内に大和に向かう。一緒に居れる日は限られておるのでな。」彼はそう言った。

大和の国は、次に私達が向かう予定の土地だった。しかし、それをこの貴人に言う訳にはいかない。

「稲目様は大和にお越しなさるので?」父がそう言うと、貴人は「然り。我は大和に参らねばならぬ。お主も同道するか?」との言葉を頂いた。

父は迷った末に彼の申し出に乗った。

先にも言ったが、私は仏教は嫌いだ。今も嫌いだ。

しかし、この国に仏教を最初に伝道した者を嫌う事はできなかった。数多くの妻を持ち、皇室に絶大な影響力を持つ逞しく優しい蘇我の稲目。

彼は私に教えてくれた。

焚き木の燃えさしの様に簡単に死んでしまう人間達。その人間達がいかに眩しく、激しく生きて行くのかをありありと教えてくれたのは彼だった。

この様な人間と言う私達の人生を導いてくれる灯火を、おさおさ粗略に扱ってはならぬ。命を奪うのは簡単であっても、それをすればとても大事な道標を自分で壊す事になりかねないのだと言う事を知ったのだ。

 

彼の行いには、許せぬ所は確かにあった。しかし、千年を遥かに超えた今も、彼に対する好意は、私の中では変わらないのだ。

そんな彼とも、別れはすぐそこに迫っていたのだけれど。

妹狐の物語7

春が来た。正月(現在の2月)以降は大雪も降らなくなったが、私達はそれでも雪に閉じ込められながら、ひたすら備蓄していた食糧で食いつないでいた。

実際、本性を現して、狐の姿になれば山の中できちんと獲物は見つかるのだが、それは最後の手段である。

最近は、兄が小さな弓を使って、鳥を仕留めて帰って来る事も多い。

俊敏で、寒さをものともせず、鉄と木で作り上げた弓に、麻の弦、世間では何人引きとか言われる強い弦を張っている。

何度か引いて壊したが、この手の弓は引くよりも押した方が良いとわかり、それ以後はその様に使っている。

 

この頃は、調味料は大したものは存在していない。しかし、干した昆布で出汁を取る知恵はきちんと存在していた。

鳥は捌かれて、昆布出汁で煮られて食された。

私達の家族は、別に菜食主義ではない。本性の狐の姿だと、完全な肉食獣だし、人間の姿でも肉は食べる。

しかし、他の人が作った肉の料理を食べる事はなかった。後に、その理由を知ったが、それは知らなければよかったと言う納得の仕方でもあった。

 

さて、この頃に入って来た仏教と言う面倒な教えでは、殺生がいけないことだと記されているのだそうだ。私は、生涯仏教と言うものを良いと思ったことがない。

所詮は、インドの周辺国が、インドを包囲する為に作り上げた宗教であると、私達は知っていたからだ。

その後に、様々な仏教を信じる指導者達がやらかした奇行や醜行を見ても、到底信仰に値するものだとは思われなかった。

後々で知ったのだが、この宗教は、本来的には日本には入れてはならない宗教だったと言う事もある。明白に先祖供養を否定している。

その点が、神道の教えと真逆なのだ。

私達は、実際問題としては神道を信じていたのだと思う。と言うか、生まれた頃に存在していた宗教とは、それしかなかったのだ。

まあ、そんな事を深くその時に考えていた訳ではない。冬でも元気に生活している雉や山鳩に感謝しつつ、美味しくいただいたものだ。

姉は姉で、最近は背中に担ぐ薬草の箱を拵えて、それの区分け方法とか、乳鉢や摺り上げる道具を手作りしている。雪が溶け始める時期に備えているのだ。

母は父が作った針を使って、いろいろな袋や細かい目の網を作っている。この地方で手に入る布は高品質だった。麻も柔らかく加工されている。

九州では、服装に気を付けた事のない家族が、ここでは当時の品質内では贅沢な装いをし始めている。

私達は、ここでの生活を本当に楽しんでいた。幼い私に取って、最も幸せな時期だったかも知れない。

 

やがて雪が解け始め、山間部のために日の出が遅く、海が近くに開けて、日没が遅いこの地は独特のペースで時が過ぎて行く。

もうすぐ、また交易が再開されると思われた頃になっても、交易船はやって来なかった。

代わりにやって来たのは、復員となった兵隊達だった。邦津で養いきれなくなった兵隊が、出雲や丹波に帰って来たのだ。

ざっと見て3千人以上の兵隊が屯所の内外に見える。須佐に残るのは少数だが、隠岐の島、出雲、丹波、但馬、因幡から動員されていた兵隊が途中の食糧を調達するためにここで待つように言われたとの事だ。

その後に、船が2隻程到着して、それらに那津から届けられた食糧が配給される。

九州の兵隊は、現地で補給を受けて随分な数が解散したとの事だ。

現在の任那では、駐屯している兵隊が2千まで減少している。

国境の警備と、治安維持以外には役に立たない数に減ったのだ。

私達が居たのが少し前だが、その時には7千人程の日本人の兵隊が居て、那津には更に沢山の兵団が存在していた。

那津も閑散とし始めているのだろう。恐ろしい程に状況は変化している。

 

考えてみれば、私が生まれてから、ここまで政治的な状況が変化した記憶はなかった。

大和の国で政変があり、武烈天王が継体天王に取って代わられた際も、言ってみればそれは日本国内に二つある大和と名乗る連合政府の中の片方に起きた政変でしかなかった。外国とは思えないが、自分の国でもなかったのだ。

(この100年以上後に、畿内の大和と、九州の大和が盛大な反目の末に、唐の都で正統を巡って大喧嘩を行った事が、旧唐書にキッチリ記載されている)

 それはさておいて、今回の任那からの撤退騒ぎは、気楽に外征を行って成功して来た古代日本の大きな転換期だったと言える。

単なる部族連合でしかなかった朝鮮半島の国が、まともな文化文明、何よりも法制度を備え始めて、強大化した結果の、当然の帰結だったのだと思う。

何よりも、朝鮮半島の為政者に先見性があったのは、インド包囲網の方便であった仏教の移入をすんなり認めた事だったろう。

それの音頭を取っていたのは、多分古代の中国だったのだろう。物語に語られる三蔵法師がこの頃はまだ存在していない唐の長安から出発する随分以前に、既に朝鮮半島には仏教が伝来していた。

中国国内でも、周辺国でも、この頃には仏教を研究する動きが強く起こっていた。

この後に、近畿を右往左往する私達家族にとって、仏教とは面倒なだけの宗教に思えたものだ。人の心が変わって行く。その事に、私達家族は漠然としたもの以上の不安を覚えたものだ。

しかし、それと共に起きた様々な政変を経験して、私達の運命にも、大きな変化が訪れるのだ。

それはまだまだ先の話。今は、復員して来た兵隊の世話を、須佐の集落全てが行っていた。

 

そんな中、三隻目の船が到着し、更に食糧が配給された。その船には便乗して来た貴人が居た。

彼は、供回りの者を多数連れており、秦氏の館に挨拶に詣でた。

仕立ての良い絹の服を着て、布の靴を履いている。パッと見て贅沢な男の貴人だった。

いかめしい顔をして、大きな直刀を佩いている。柄も鞘も豪華に仕立てられている。

後でわかったのだが、彼はこの須佐を古くは根拠地にしていた大豪族。蘇我氏の貴人であった。

妹狐の物語6

私達は、こんな降ってわいた様な災難に見舞われながらも、何とか出雲に辿り着いた。

出雲の国は、当時は製鉄をほとんど独占していた。

製鉄と言っても、その鉄はほとんど武器だったのだが。

 

九州で発生した古代の神道、それがアマテルを頭にした宗教勢力だった。

そして、出雲はスサノオ、武力と武器を提供する勢力。

それらが誓約(うけい)を結んで、日本を統治する。古代からの伝統だ。

アマテルの側は皇室の男を天皇に据える。スサノオの側は出雲の女を皇后にする。

不戦条約でもあり、厳密な役割分担でもあったのだろう。

しかしながら、これは結構危ない橋でもあったのだ。

アマテルと言う宗教勢力は、神道を奉じている。けれど、出雲の方は、大先祖の大国主あるいは大己貴も蛇であり、その兄弟と言われる三輪の神の大物主も蛇である。

これらは記紀伝承でも語られているとおりだ。

実は、同じく記紀に書かれているスサノオの妻と言われる櫛稲田も蛇である。

櫛と言うのは、そもそも蛇の舌を表すものであり、それが稲田と結びつけば、それは青大将とかの、稲田の土手に住み着く蛇と言う事になる。

信仰そのものが根本から違うのだ。蛇神信仰が強い土地柄と、祖霊を祀る勢力と。それらは、古墳時代に本格的に衝突する事になる。

まだまだ、この時点では出雲と大和の関係は微妙ではあっても、誓約を守り合っていた。

これが激変するのは、7世紀も半ばを超えてからの事だ。この時点からまだ200年程も後の事になる。

 

父はここで武器を初めて作り始めた。木炭をうちわで扇いで過熱し、玉金を灼熱するまで熱し、金床の上で叩いて圧延する。まだまだ、この時代では高温で精錬される鉄器は少ない。

しかし、父の能力もあって、作り上げられる鋼は素晴らしいものだった。

鋳鉄は、この時代にも、後世でも父は手掛けなかった。単に鋳型を作るのが嫌いだったのだろうけど。父は、農機具さえも手で叩いて作っていた。

器用にソケット部分を作り上げる手際には、手伝っていた兄が感嘆する程だ。

鉄製の鎌や鋤を彼はドンドン作って行った。直剣も作ったが、これは少数だった。

父が好きなのは、実は鏃や鉾などの、ソケットの付いた武器だった。

どれ程に火であぶられても、全く痛痒を感じない父は、そもそも鍛冶屋として最高の存在だった。

 

出来上がった製品を、砥石で研いで更に磨く。

実は、私達はもとより、父すらも知らなかったのだが、この砥石と言う物は日本以外の国ではほとんど産出されない物だったらしい。

日本人は、それをずっと後になって知ることになる。日本人なら、誰でも持ち歩いて、気楽に使ってる代物が、世界レベルでは貴重品だったと言うのだから驚きだ。

ともかく、出雲での生活は突然雨が降って来る事が多い以外は、とても快適だった。

なにしろ、人々はおっとりしていて険悪な雰囲気を持たないし、交易で栄えている土地柄でもあり、珍しい外見の私達に対しても敵意や疑いを持たないのだ。

夜になると響いて来る太鼓の響きも、ここが信心深く、穏やかな土地なのだと教えてくれる。

しかも、ここらの人達は顔に刺青をしていないのも嬉しかった。私達は、ここでは普通の面相にカテゴライズされていた訳だ。本当にありがたい。

 

この頃は、出雲でも秦氏が養蚕を行っていた。解除率の高い、大きな繭を作る蚕が育てられており、厳しく囲われた桑畑の中で養蚕が行われていた。

秦氏の子飼いの兵隊が、夜まで篝火を焚いて警備している。

特に、網を全体に掛けられた場所、カイコガに桑の木に産卵させるために作られた場所等は、一角全体に兵が張り付いて厳重に警備されている。

迂闊に近くを通ると、そのまま番所に引っ張られて行く程に警戒は厳しい。

産卵が済んだ後は、一転して彼等は優しい人達に戻る。近所の子供に桑の実を配ったりしてくれる。口の中を紫色にして甘い果実を食べている子供達と一緒に唄を歌ったり。

任那で私達に乱暴しようとしていた兵隊とは、月とスッポンの差がある。

そもそも、この地の兵隊はニンニクを齧ったりしなかったし。

 

そんな強面の彼等であるが、父の作った武器を手にして、鼻高々だったのである。娘の私の事も彼等は知っており、桑畑の管理も行っている彼等は、鋤や鍬、鎌等の素晴らしい出来栄えを毎度褒めてくれたものだ。

秦氏の貴人達も、私の母に絹の反物を贈って来たり、弓で射た雉を贈ってくれたりとかで、本当に親切にして貰った。

次第に父は鎧や冑も作るようになっていた。小さな板を張り合わせて縦横に留め具が付いた桂甲では取り回しが不便と言う事で、父はそれらを嵩張らない様にする改良を重ねた。

金具や紐を改良して、すぐに着れる様に直し、走っても鎧が揺れない様にした。

冑については、視界が良く、着用していても疲れない作りに直した。

それも兵達には好評で、秦氏の貴人達も喜んだものだ。

 

父は、ともかく出雲では腕を振るいまわった。評判はうなぎのぼりで、私達は幸せなこの地での生活に満足していた。

地元の子供達とも仲良くなり、私自身も満足だった。この地の子供達は、非常に俊敏で、しかも良く働く子供達だった。水も豊富で、山間部であっても平野もちゃんとあるので、食物にも困らなかった。

姉は例によって薬師の下働きをしている。野山の薬草にも詳しくなり、地元の女性達と出掛けては、薬草を採取していた。

なによりも、この地では姉を付け狙う馬鹿な男が居なかったのもありがたかったろう。

地元の女性達は、姉の事を本当に頼りにしていた。特に、子供を助けて貰った母親達には、姉を見かけると両手を合わせる人まで出ていたのだから。

一年はあっという間に過ぎ、二年目がやって来た。

秋が過ぎて、冬になる。この地の雪は深い。干しておいた大根や蕪を食べ、茹でた大豆で納豆を作りながら、私達親子は団欒を楽しむ。

けれど、やはり私達には同じ土地に居着く事はできない。特に、育ち盛りの筈の私が一向に背丈も伸びず、幼いままでは・・・。

二年目の初めに、次にはどこに行くかが話し合われた。この幸せな出雲の地を離れて、またどこかに行く。耐えがたい何かがあった。

 

この頃に聞こえて来た噂があった。何でも、任那からの船便に問題が生じているとの事だ。

新羅は、あれから方針を変更した模様で、ひたすらに隣国である百済の各地を略奪して回っているらしい。

南下して、平壌を攻撃し、大戦果を挙げたのだとか。

各地で、日本人の略奪に怒りが生じており、徴兵も盛んで、僅か一年少しで朝鮮半島の情勢は大きく変化したとの事だ。

百済と新羅は本来は同盟関係だった。しかし、今回の日本人の王城襲撃で百済は何の援軍も行わず、仲裁すらしなかった。

そして、高句麗が百済を攻めた際に、怒れる新羅が横槍で百済を叩きのめしたのだ。

しかも、今回の日本人の襲撃については、どうやら王城の兵隊は高句麗との交戦の為に動員されていたみたいで、それらが高句麗から帰還して、そのまま百済に襲い掛かったのだとか。

何とも大変な時期に私達はあそこに出向いていたものだなと。嘆息するしかない。

 

やってしまった日本人達は、後悔したものの手遅れである。

このままでは、新羅と任那が全面的に激突すると予想された。地の利はもちろん新羅にある。

孤立した立地、まさに背水の陣と言える。そんな所に大兵力を置いていても、結局は無駄死にするばかり。

なにしろ、食糧の自給自足すらできない土地なのだ。そんな所では一度負けたら置いてある兵隊は全滅する。

この時点で、任那は詰んでいたのだと思う。新羅を本気で怒らせた。しかも無益な戦いでだ。(ちなみに、私達が見た戦いは、どの歴史書にも載っていない。)

好き放題に掘りまくっていた鉄の山も、好き放題に浚っていた砂鉄の川も。それらは全て今後は日本国内で獲得するしかなくなってしまうのである。

多分、百済の差し金だったろう、王城の戦い。百済としては、自分達は同盟を保持しながら、日本人が徹底的に新羅の王城を破壊する事を望んでいたのだろう。

そして、空の都は確かに陥落した。その後に、日本人は持ち前の淡白な性質を発揮して、物を略奪しただけで、人を拉致しただけで引き上げた。裏で糸を引いていた方はガッカリした事だろう。

 

悪行の報いは訪れるとは限らない。しかし、愚行のツケは必ず因果応報で訪れる。

そんなこんなで、任那に残された時間は後10年程となった。

次は大和の国に行こう。父はそう言った。

 

その話題が出た日、私は寝床の中で声を殺して泣いていた。

幸せな日々が、またしても終わる事に耐えがたい思いが溢れた。 

妹狐の物語5

巡邏の兵隊、5人程の分隊が私達の家族を呼び止めた。

今は交代したばかりの兵隊が任那駐屯の日本軍には多くなっている。

季節はまたしても秋。ここに定住しようとする兵隊以外は、毎年少しずつ入れ替わって行く。冬の季節、現在の11月から2月を除いて、2か月に一度は定期便が日本と任那を往復している。

だから、私達家族の顔を知らない者も多いのだ。加えて、運の悪い事に、そいつらは確信犯で私の母と姉を狙っていたらしい。前々から狙っていたのだろう。

庇護の無い唐人の女子供なら、何をしても良いのだと言う、悪い事を考え付いたのだろうが。その時は父が居なかったのが災いした。

例によってニンニクを齧りながら、そいつらは臭い口から汚い言葉を投げかけて来た。

私や兄を無視して、そいつらはまだ小娘の姉と、美しい母に大声を出して恫喝して来た。

女を口説くのに詩も使わない。それなりの腕っぷしと武器は持っているのだろうけど、それ以外は何も持たない連中だった。

 

母の目配せで、私達は一散に逃げ出した。

近くの薄暗い竹の茂みの中に走り込んで、その後に更に速度を上げた。人間業ではないと悟られるわけにはいかない。

武器を持った兵隊達は、それでも追い掛けて来た。女子供の足なんか問題ではないと思ったのだろう。

母が導くままに、人間業では到底なしえない速度で、硬い竹の枝や地下茎を避けながら走り抜ける。衣服にも一切擦り傷すらつけずに走り抜ける。

足元は黄色い土で薄く覆われているが、それらにほとんど足跡も付けないで走る。

 

兵隊達は、木靴を履いていたが、やはりそれでも長い武器を担いで、見通しが悪く、地面に硬い突起がわんさかある竹林の中で私達を追い掛けるのは至難だった。

やがて、足の裏や指を切った者が出て、悪態をつきながら退散して行く。

 

私達は、それで事が済んだものと思っていた。しかし、甘かったのである。

足の裏を、竹を伐採した後の地下茎の残りで切った者の一人が数日後に死んだ。

単に破傷風のせいであるが、それを怪しい女子供を追跡している内に、毒に侵されて死んだ。呪詛を使う魅物がいると言う事を、無頼の兵隊が上官に訴え出たのだ。もう一人の兵隊も、脚が腫れ上がり、高熱を出して生死の境を彷徨っている。

逆恨みも甚だしいが、古代には裁判所も警察も無く、それらの原型もなかった。そして、妖怪であると疑われる事は、当時は恐ろしく危険な事だった。

 

父はやはり訴え出て、妻と娘が乱暴されそうになった事、兵隊を制止しようとした兄が、矛を振り上げて威嚇された事を申し述べた。

侃々諤々の言い争いの末に、同席していた母が能力を使って、仲裁してくれていた役人に善良な心を植え付けた。彼は、次の日本本土への船便に、私達家族を乗せて帰還させる様に取り計らってくれると言う事になったのだ。

彼は、この地に勢力を持っていた秦氏の傍流の者で、父が製鉄を良くすると知って、出雲に向かう船に便乗させてくれた。

2人目の死者が出て、更に追及は手酷くなった。私達は秦氏の館の隅の小屋に匿われることになった。

所詮、その兵士達は、何の身分も無い破廉恥な下人である。秦氏の館の中に何の手出しもできる訳がない。しかし、私達はもう任那の領内を歩き回る事ができなくなっていた。

これが二年目に私達が任那を去る事になった原因である。

帰りの船は、言ってみれば鉄の玉金を満載した貨物船であり、船足は本当に遅かった。

途中で対馬に寄り、玉金を少し置いて、食糧と水を仕入れる。対馬は当時から日本人だけが入植していた島で、朝鮮半島の人達は本当に少数しかいなかった。

先般の戦闘の影響もあって、彼等はほとんどが追い払われて対馬に残っていなかった。

そこに小ざっぱりした外見の、目元や面相が日本人らしくない親子がやって来たのだから、外国人が来たのだと警戒されてしまう。

本当に、自分達の実際に不便な外見を私は何度呪った事だろう。

この時は大事はなかった。ちょっと騒がれただけで、兵隊が来る事もなかった。

秦氏の船なのだから、交易のために外国人を運ぶ事もあるだろうと勝手に納得してくれて終わったのだ。

 

それからすぐに船は出発し、五島列島を抜けて、九州沿岸に入り、現在の門司港に向かうコースに乗った。

当時から江戸時代までの船は、一時期の例外を除いて、全て遠洋を独行する様な構造になっていない。

毎度弱い構造を点検しながら、小刻みに動いて行く。余程の好天でない限り、夜に船を動かす事もしない。艤装が脆弱過ぎるのだ。夜に変事が起きたら、人間の目では何も確認できない。木造船の中で灯りを灯すのは自殺行為でもある。

その点については、数百年後の軍用船舶にしても同じ事だったが。

 

九州から出発して3日目に、現在の山口県の北部の海上で、その事件は起きた。

夜中に、船体で異音が発せられたのだ。当時の船には後の竜骨は入っていない。単に張り合わせた木の板を釘で留めているだけの船で、後の浴槽よりも余程作りが悪い。

そんなものに重い荷物を満載するのが本来無理なのだと思う。

しかし、当時の船は全てがそんなものだった。それなりの知恵と、それなりの用心によって、それなりの安全を確保していただけ。それでも十分に交易や貨客は成立していたのである。

そうではあっても、やはり私達の家族は運が悪かったのだろう。こうして海難に巻き込まれているのだから。

全員が甲板の上に集まって大騒ぎをしている。幸い風は吹いていたので、2本の帆で方向変換はできる。しかし、曇っていて月が見えない暗い夜であった。

船頭は、乗り合わせた貴人に陸に乗り上げて、積み荷と乗組員を救うべきだと進言した。貴人は物分かり良く、それを認めた。

竜骨の無い船は、座礁したら終わりだ。何をどうやっても、自重で船は壊れて、穴が開いてしまう。積み荷は重い玉金の木箱だから、今の時点ではどうやっても甲板に上げる事はできない。そんな事をすれば、簡単に船が転覆していまうのだ。

 

乗り上げる事の出来る砂浜がないか。私達も甲板から探した。私達は揃って夜目が利く。人間の視覚では真っ暗闇でも、私達には暗がり程度だ。

母は、私と兄に「目を光らせては駄目よ。」と小声で告げた。私達が夜に出歩く事をしないのは、自分でも意識しない内に、目が光っている事が多いためだ。

家の中でも、灯火が消された後に、家族の目が凄い光を放っているのを何度か見た事がある。兄や姉でもついついしくじる事があるのだ。

余程に気を付けないといけない、こんな海の上で船員達の注意や警戒、あるいは危険な意図を掻き立てて良い筈がない。海の上では逃げも隠れもできないのだから。

いや、逃げられるか。でも、私はそんな事はしたくなかった。

この人達は私達に親切にしてくれたからだ。特に、貴人である秦氏の人は、幼い私に本当に親切にしてくれたのだから。

「あれを。山の上に灯りが見えます。」姉がそう船員に告げた。

船員達は、そんなものは見えないと言うが、姉は確かに見えると言い張った。

「目の良い娘だな。あちらに山が見えるのか?」貴人は聞き返した。

「はい、あちらに山があり、そこで灯りが見えました。」姉はそう返答した。

そこは、目的地である須佐の里から少し南の、現在の山口県阿武町の沿岸であり、姉が見た灯りは、おそらく山の上にある後の御山神社となる場所・・・で発せられたものだったのだろう。

何かの用があって、松明を持って建物の外に出た者がいたのかも知れない。

 

「陸が近くにあるのなら、そのまま乗り上げられる砂浜があるかも知れない。」船頭はそう言った。

「後少しのところで船を捨てるのは残念だが、大工達に何が起きたかを調べさせるためにもな。ここは辛抱するしかなかろうよ。」

今や船倉の床は更に大きな物音を立てており、床が壊れたならば、即座に船底も危機に瀕する事態となっている。つまり、いつ船は沈没しても不思議ではないのだ。

また山上に灯火が見えた。今度は船員達もそれを視認できている。

「砂浜が見える!」兄が叫んだ。「あっちだよ!」指をさしている。

「よし、乗り上げろ。このままだ。」船頭は現在の速度のままで進んで、砂浜に乗り上げるつもりのようだ。現在の速度は、後の基準で2ノットそこそこで、非常にゆっくりしたものだ。船体にストレスを掛けない様に、今も速度控えめで航行している。

遂に浜辺に乗り上げる段になって、「全員何かに掴まれ!」との指示が発せられた。

船は直角に浜辺に乗り上げるのではなく、直前で回頭して、緩い角度で浜に乗り上げた。

場所は現在の清が浜と呼ばれる所だった。

接岸の後、長板を降ろし、碇と縄が何本も砂浜に投げ込まれた。

船が転覆したり、自重で壊れ始めたりする前に、全員が砂浜に上陸して行く。

食糧と水筒が運び出されて並べられる。荷物の内で、そこそこ軽くて傷みやすい品物も木箱ごと運び出される。

今もメキメキと音を立てて、船体は傾ぎながら壊れつつある。全ての人達が安全な距離を保ったところで、船が急激に傾き始め、横転こそしなかったものの、帆は2本とも倒れてしまった。

「やれやれ、人死にが出なかったのが不幸中の幸いだったかな。」貴人が言う。

「須佐までは大した距離じゃありません。朝まで野宿をして、その後に歩いて須佐に向かい、難儀について報せましょう。」船頭も安心する。

ところが、野宿の為に火を焚こうとして、誰も火口を持って降りなかったことがわかった。

兄が買って出て、船内に戻り、火口の入った箱を探し出して来た。

 

火打石と鉄の棒、乾いた木片を石の鉋で細かく削る。乾いた地面の上で穴を掘って、おが屑を投げ込んで火花を散らす。その後はフウフウと息を吐きかけて、手間暇かけた上で火は起こった。

枯れ枝がくべられて、その後は一安心した船員達が横になって休息する。

私達一家も火を分けて貰って、それを囲んで筵の上に横たわった。

グラグラ揺れない地面は安心できた。

災難の一夜が明けて、私達は歩き出した。彼方の山を見ても、あの時に灯火を点した建物は見当たらなかった。

現在の御山神社は、厳島神社の系列の祭神を祭ってはいるが、明治時代までは異国の神々を祀っていた奇妙な神社だったのだ。

この時代に、御山神社の前身が何を祀り、どんな信仰を行っていたのかは、全く明らかになっていない。

 

妹狐の物語4

往路は人の身なりで、復路は獣として野山を走る。

私達は目的を果たせないと悟れば、その瞬間から果断に来た道を引き返す。

私は自分も含めた家族の変化の術について、この時に疑問を抱いた。

もっと醜い姿に変化すれば良いのではないか。そう思ったのだ。人が興味を引かない程度に手加減して変化すれば良いのではないかと。

 

しかし、私の意に反して、私の家族は苦笑しながら、それはできないのだと口を揃えた。

私達、神狐は異物を体内に宿せない。刺青の染料もそうなのだ。痘痕や吹き出物も同じく、異物の反応であり、それを私達は体感できない。だから再現できない。

また、美しくない外見にも私達は馴染めない。醜い外見に変化する事を、私達は心のどこかで拒絶するのだそうだ。

では、これからもこの外見のせいで問題を起こしながら暮らすのか?

それで良い。そう父も母も答えたものだ。

その時の私は、まだ変化した自分の姿を単なる仮初の形であると思っていたのだ。しかし、それも私達の本質であり、それを自分で汚す事はできないのだと。

そう得心できたのは、それからずっと後の事だ。

 

この旅に関しては、2年で終わったとだけ言っておこう。

帰りの道では、何と新羅(しら)の王城が任那の兵団に取り囲まれている場面に出くわした。

虐殺とかは起きていない様だが、例によって女子供を捕虜にする非道は当然の様に為されている。こんなところに人の姿で現れても良い事は一つだってない。

そもそも、私達は中国系の移民だと言う触れ込みなのだ。そう言う外見に見えない事もないのだし。

 

山の中から私達は一部始終を見ていた。

土で出来た家から、木製の家具その他が持ち出されて、土塀の門に次々と投げ込まれ、それに火が放たれる。

王城に籠城した兵隊は困り果てている。多分、応戦用の弓矢にも不足しているのだろう。射手が既に消耗し果てているのかも知れないが、。

大した高さも無い塀の上に、この状況で立つなど論外だ。今の時点では自殺行為だ。

しばらくすると、門は焼けてしまい、そこに木槌を持った兵隊が押し寄せる前に、城壁の上に身なりの良い男が立ち上がって何事かを叫び始めた。

どうやら、降参するようだ。

 

その後は、王城の近くで攻めて来た兵士達に食物が振る舞われて機嫌を直す様に懇願が行われる。

日本人の方は、勝って気を良くし、捕虜も沢山得た。食糧も得て目的を達したのだ。

身なりの良い者達が多数、日本人の兵団の中に出向いて話し掛けている。腸は煮えかえってるだろうに、物腰は丁重だ。なけなしの食糧と酒が振る舞われている。

 

ともかくも、日本人達は勝った。次も勝つつもりだろう。横柄な物腰が、次の来襲があるだろう事を、なによりも雄弁に物語っている。

そんな感じで、日本人達は散々に略奪し、威張り散らし、武器を持って王城内を闊歩した後、数日後には撤退して行く。

王城の者達はどうやってこの冬を越すのだろう。そう思うが、私達にできる事はない。

 

きっと、この戦いで新羅の王は、単独では日本人に対抗するのは難しいと悟っただろう。しかし、後ろ盾に高句麗が付いてくれるとも思えない。ならば、唐国か?これも今は大内乱状態で頼りになるまい。

主力の兵団が出撃したならば、毎度こんな風に日本人が攻めて来るとなれば、まともに軍事作戦もできないだろう。

それどころか、この事件の50年後には統一なった隋帝国が、高句麗を攻めるような事になる。そして、私達はその際にも半島に居合わせる事になるのだ・・・・。(なんてついてないのだろう。)

 

日本人達が去った後に、私達はちょっとした発見をした。

新羅の人達は、地面に食べ物を埋めていたと言う事だ。しかも大規模に大量に。

そのまま埋められた硬い木の実、発酵食品の先駆の様なあまり食欲の湧かない代物の壺、木箱に入れた奇妙な何かも多数掘り出される。

乾燥させた粟や稗、高粱とかの日本人が好まない雑穀、何かの幼虫。しかし、これでも王城に残った者達の食糧としては不足しているだろう。

 

ともかく、もう一度任那へ帰ろうと言う事で家族の意見は一致していた。こんなところに居ても、得るものは何もない。

そもそも、首都を略奪されて、気が立った人達の中に、どこから来たか不明な無力そうな旅人がひょっこり現れて良い事があるとも思えない。

そんな私達の苦慮をよそに、日本人達は、途中の村落でも略奪しながら、ダラダラと任那に帰って行く。

後の日本人の軍隊に見られる規律は、この時点の日本人には全く見受けられない。単なる烏合の衆であり、武器を持った暴徒でしかない。

途中の村で捕虜を得て喜び、行く先々で略奪をして喜び、歩きながらニンニクを齧っている様な粗暴な兵隊だ。飲める水があるとなれば、平気で隊列を離れる。しかも、隊伍それ自体が水を求めて水場に走って行く。これから200年経たないと、まともな武力集団は日本には生まれないのだ。

私達一家は、のろのろと動くだけの雑然とした軍隊を追い抜いて、風の様に任那の領域に走り込んで行く。

 

帰ってからわかったのが、日本人の中には、現在の自給自足ができない任那の現状を改善しようとする動きがこの時に起きていたことだ。

根っこの部分を藁で包まれた苗木が沢山運び込まれている。当然日本からだろう。

母は、多分栗の木なのだろうと言っていた。なるほど、栗の木は、日本ではあちこちに植えられているが、半島ではほとんど見かけない。

そもそも、日本の栗はここで育つのか?父母は思った様だ。

結局、日本から持ち込まれた栗は、ここでは育たなかったのだろう。育ったのだとしても、後に任那の領域内で栗が生い茂っているのを見る事はなかった。

日本では、母方の親類がこの時点の5千年前くらいに、栗の植樹が始まったのを見ていたそうだ。その音頭を取っていたのがクニトコタチと言う人で、後に日本書紀にも名が記された皇室の大先祖なのだとか。

クニトコタチは、12人の身内と共に、おせっかいにも方々を回って、栗を植樹して回っていたのだそうだ。

けれど、ある時に彼は出向いた先から帰らずに行方知れずとなった。途中で行き倒れたか、闇討ちにあったのか。それもわからない。

ともあれ、随分後になって、朝鮮半島の自生種あるいは中国から入った改良品種の栗はこの地に根付く事となる。現在も残る平壌種と言う甘栗として食する品種だ。しかし、この時点では、そんなものは存在しなかったのだ。少なくとも、私達は見ていない。

私も兄も、植樹の為に元気に働いた。そんな最中に、捕虜を沢山連れた兵隊達が戻って来たのだ。生殺与奪を思いのままにされる捕虜達はどんな気持ちだったろうか。

捕虜の中には、いち早く日本人に迎合する者も現れた。自ら、顔面に下手くそな入れ墨をお互いに入れ合う新羅の民が散見される様になる。彼等は、捕虜ではあったが、心は日本人になりたがっていたのだろう。当時はあの呪うべき儒教は、日本にも半島にも流入していない。顔に刺青を入れたり、自分で自傷同然の装飾を身体に施したりすることに抵抗がなかった。

中国大陸との交易もまだまだ大した事は行われていない。主に、大陸側から商人が時たまやって来るのであり、来るのは任那までだった。

日本人が大陸に出向く事は稀であり、出向いても顔面の刺青は大陸では罪人の証だったのだから、歓迎された訳がない。

日本人が大きく変わって行くのは、大陸に商圏を求めた時からだと私は思っている。しかも、それは大きな混乱をもたらす事になるのだ。

しかし、その兆候は今は全く現れていない。思えば、この時期の日本が一番日本人として最も純粋な時期だったのかも知れない。

妹狐の物語3

初めて行く朝鮮半島。

今も忘れられないのだが、当時の朝鮮半島南部は、日本人が沢山住む別天地だったのだ。

 

私達の両親は、その頃は日本の里で陸稲を育てる小作を行い、時には鋳掛も行い、時には製鉄や青銅の鋳造も行った。

それでも、長い間は同じ所にいられない。

子供だった私達も、いろんなところで働いた。塩田や水稲の草取り。子供でも何でも当時は労働力だ。だから、私は未だに現代に馴染めない。

子供がお客様で、それを接待する為に誰か、特に教師が奉仕しているとか。

そんな”お子様”と言う概念には、懐疑を超えて嫌悪すら抱いてしまう。

 

それはさておいて、私達はしっかり働いた。働くのが好きだったからだ。

姉は手先がとても器用で頭が良く、兄は力が強く脚が極端に速かった。

私はようやく外見が6歳程度に育ったばかりだった。この後100年で10歳ばかりの外見になり、手足も伸びるのだが、今の時点では背丈も足りず、手足も短かった。

塩田で私は塩から小石や砂をより分ける仕事をした。兄は石垣積みや泥で堤を作った。

姉は薬師の下で、下働きしていた。

父には特別な能力があった。それは火炎に関する力だった。彼が見つめると、金属は熱くなり、生木も乾いて燃え上がる。それは危険な力だったに違いない。

けれど、父は自分の力を危険だと知悉していた。だからこそ、金属を扱う仕事を好んだのだろう。

姉の能力は、後に私が手に入れた力と同一のものだった。毒素を消し、病とりわけ痘瘡を治癒する力があった。だからこそ、薬師の家では常に重宝された。

姉が看病した病人はその多くが快癒するのだから。それ故に祈祷師が割を食う事になった。

「あの親子を見ろ。身体に傷一つなく、シミやホクロもない。子供達も外で仕事をしていても日に焼けもせぬ。揃ってアヤカシであるやも知れぬ。」ある時にそう、讒言される事となった。

 

真面目に働いて、贅沢すらしない清貧の家族に対しての仕打ちではない。しかし、世の常はそんなものだ。自分の不都合を他人が被るべきと思っているのは、現代だけではない。古代の頃は、人は今よりももっとおおらかで、あからさまな欲を表現していた時代でもある。

警戒怠らぬ私の家族達は、その動きを早々に察知しており、少ない荷物をまとめて、さっさと逃げ出す事にした。

当時、私達は現在の大分県に住んでいた。海岸沿いの開けた場所だった。

そこから逃げ出した先は、現在の福岡県だった。山の中を狐の姿で走り抜け、途中で現在の熊本県に出て、再び森と山を通り、福岡に走り込んだ。

 

当時の日本には、まだ武士と言う者は発生していない。ほぼ全ての兵士が傭兵であり、徴兵された期間限定の戦士だった。

それらが現在の福岡県の大宰府と後に呼ばれる場所に駐屯して、訓練や警備を行っていた。当時は単に「なのつ」と呼ばれ、漢字が導入されて後は「邦津」と呼ばれていたのだが。

以前から私達は、数年なりとも、外国に赴き、その後に別の場所に行こうと決めていた。毎度逃げ出す算段をしながら、どこかにしばらく定住する。

何ともやりきれない人生の曙だったと、今にしてみれば思えてしまう。

 

母の能力は、これは多分人間達が狐の化け物にはありがちなものだと思うだろう能力だった。

人の心を操るのだ。しかし、後に見た女狐の様に人の心を壊して操るのではない。単に暗示を掛けて、好意を掻き立てるだけの能力だった。人を極端に親切で、物分かりを良くし、無欲にしてしまう力だ。実際は、善良化の能力なのだと思う。

困った人を、相手が見過ごせなくなる。不遇な境遇の人を、相手が助けずにはおけなくなる。

多分、この力無しには、私達は揃って人里に棲めなかったのではないだろうか。

 

ともかくも、兵達と共に、まずは壱岐を通り、次に対馬まで辿り着き、その後に天気を見て半島に渡る。何で台風の多い秋に集中して船を出すのかは謎だったけど、私達は数日で後に朝鮮半島と呼ばれる任那まで辿り着いた。

お役御免で大喜びの兵隊達と鉄鉱石、目隠しをされた大型犬程度の大きさの馬匹を積み込んで船は帰って行く。お決まりのコースだ。

私達は、袋一杯の保存食(鍋で水分を含ませた後に焼いた赤い米と、後の味噌に相当する原始的な納豆を干した塊)を家族で手分けして運び、現地で鉄の地金を作っている人達のところまでトボトボと歩いて行く。

わざとゆっくりと進んだのは、岡の上からピョンピョンと荒れ地を凄い勢いで進んで行く家族を目撃されたら、それこそ目的地に着いた途端に大荒れの展開しか期待できなかったからだ。

半島の南部は、森林こそ当時は多かったが、多くは針葉樹であり、建物には適していても、食料を提供してくれるわけではない。

本性を現して、狩りをしようにも、ここは獣それ自体が極少ない土地柄だった。

 

定住して半年、父は砂鉄を掬って真鉄の玉に換える作業に没頭して、家族をほとんど構わなかった。母は、常に目立たずにひたすらに付近の人達との好を得る事に集中している。

姉は例によって野山を歩いて、薬草になりそうな野草を求めていた。けれど、女の少ないこの土地では、小娘でも一人歩きは危険だ。

姉が山や野を歩くのを追い掛けて、誘拐目的でストーキングし、斜面や稜線で無理な追跡をして、転げ落ちて死んだ者も、一人二人では無いらしい。まあ、自業自得なのだが。

そして、ここらは獣用の食料もだが、人間用の食糧も乏しかった。任那に派遣されてきた兵隊達の仕事とは、もちろん鉄鉱石製造施設の防衛。もう一つは、その敵国(実際は被害者っぽいけど)からの略奪にあった。

新羅と言われる国、この国は日本人の子孫が統治する、外国の国家だ。そうと知った上で、どう言う訳か、日本人は外国人の国を攻めずに、日本人の統治する国と争っていた。

何故かは私にもわからない。住んでいる者にわからないのだから、誰にもわからないだろう。百済と言う国が外交が上手だったのか、日本人の外交が下手だったのか、どちらか、あるいは両方だろう。

 

1年と経たずに、父はここで出雲式の砂鉄を使った玉鉄の作り方を得心したらしい。

しかし、今回の旅は5年と最初から決まっていた。だから、暇乞いをしてから陸路で唐国に行くことになった。

当時の唐国は、実際は後日にそう呼ばれる国は存在していない。五胡十六国時代が終わっての南北朝時代と呼ばれる大混乱の時期を経て、遂に漢民族が単独での大陸支配を断念せざるを得なくなった時期だった。

途中に通った、燕国、後に北京ができるあたりは、この頃は全く本格的な都の造営がされていない。辺境の村や町でしかなかった。

この時点で私達が行けたのは、ここが限度だった。今も昔もこの辺りは荒れ地が90%、原野ではなくて荒れ地が90%なのだ。

そこを抜けて行きついたのは大河だった。しかし、その大河の水は黄色い泥の水。誰がこんなに凄い自然破壊をやらかしたのだろうか。責任を問おうにも責任者はどこにも居ない。

渡す船も無く、橋など期待すべくもない。単に荒れ果てた土地が延々と続く無法の世界があった。

引き返そう、そう言いだしたのは兄だった。豊富とは言えない食糧もそうだが、ここらの住民は警戒心が極々強く、言葉に馴染む前に襲撃を受けそうだったのだ。

誰からも庇護されない、見るからに麗しい外見の妻と娘。ちょっとした武力を持つ者ならば、夫を殺して奪おうと考えても不思議ではない。

現に、道すがらの関所で私達を凶悪な目で見つめる兵士や商人たちは沢山いた。

そして、遂に関所から騎馬の兵士が数名と身なりの良い士官らしき騎兵が武器を持って追い掛けて来る日がやって来た。

白昼堂々の狼藉を企んだ者は、しかし目的を遂げなかった。騎乗していた馬が突然に転倒してしまったからだ。父の仕業であった。

馬から投げ出されて大怪我を負った騎兵は、取り巻きの兵士に収容されて、手当の為に連れ戻された。私達は何食わぬ顔でそれを見ていた。

愚かな男は、腕と肩を酷く骨折していた。姉もそんな男に慈悲深くはなれない様で、手助けしようともしない。彼は戦士としては二度と再起できないだろう。自業自得だ。

哀れに思ったのは、その男を乗せていた馬の方だった。馬には何の罪も無かったのに。

 

私達は、人の心を持っているとは言え、本性は獣だった。獣は必要な事を必要なだけ行い、それで満ち足りるし、必要な事ならば何であろうと行う存在なのだ。

自分の身を護る為の戦いは、人であろうと獣であろうとそれは許されて然るべき行いなのだ。

何の悪事も働かぬ、ただただ平穏に暮らす事を望む存在。その細やかな願いを踏みにじろうとする者に対して、私達は一切の憐憫を感じなかった。その頃は・・・。

妹狐の物語2

私自身の略歴を簡単に話して置こう。

私が生まれたのは、現在の暦で5世紀の頃だった。

それよりも先に生まれた姉と兄。姉はたえと言う名で、兄ははせと呼ばれていた。

父母はそれぞれにかぬちべ、やめと名乗っていた。

全員今の九州で生まれた。当時の九州は現在の大分県から宮崎県が中心だった。

けれど、私の母と姉は現在の福岡県で生まれている。兄は宮崎県出身と言う事になるが、姉とは凡そ100年程も歳が違う。

私も現在の宮崎県に生まれた。水の綺麗な場所で、私は幼少の頃をそこで過ごした。

さえと言う名前を私は両親から貰った。

姉と兄が生まれた時もそうだったと聞くが、私の時も両親は人の姿を捨てて、野山で私を育てる事となった。

神狐は、生まれてから最低でも10年程は人里からは離れて暮らす必要がある。

理由は、幼い神狐が自分が何者であるかを理解していない事が非常に危険であるから。

そして、神狐が人に変化できるまでに最低それ位の日々が必要だからだ。

父は、その名前のとおり、鍛冶屋の仕事をしていた。若い頃に母と二人で村の鍛冶屋に奉公していたのだそうだ。

ただし、長く土地に居着く事はできない。二人とも人間の様にすぐに年老いたりしないからだ。

そして、子育ての際には人里から遠ざかる必要がある。その後も転々と土地を変え、時には面相を変えた。

しかし、神狐の変化能力にも限界はある。年恰好だけはどうしても変化できないのだ。

若い狐は若く、年老いた狐は年老いた姿にしか変化できない。男女の性別も超えられない。なんと不便な神通力か。

(後々に、私は更に困った制限を受ける事になるのだが、それはずっと後の話だ。)

勢い、私達は流浪の旅を繰り返す事になった。

特に、小娘二人と小僧一人が何年も歳を取らないと言うのは、人目を引きやすく、その人目とはいずれ甚大な危険となって襲い掛かって来るのだから。

おまけに、常に流れ者の鍛冶屋でいる事もできない。家族構成も変えられないのだ。

 

また、私が生まれた頃の日本人は、今からは想像も付かない外見をしていた。特に顔に刺青をする風習があり、父母は結構困っていた事を覚えている。

神狐はそんな事をしないし、できないのだ。どんなに頑張っても、私達の身体には異物を仕込む事ができない。

そのせいでいかなる毒素も受け付けないが、同じく刺青も次の日には埋め込んだ染料が顔から抜け落ちてしまうのだ。

仕方がないので、父母は自分達を唐国から渡って来た鍛冶屋ですと説明していたのだ。まあ、これくらいの嘘は仕方ないものだろうか。(吊目気味の目元も、この嘘には好都合だった。今もそうだが、当時も日本人は目が大きくて吊目は少なかったのだ。)

方々の村の人達の役にも立ったのだし、それでオアイコかなとも思う。

 

当時の日本は、既に鉄器時代に入っていた。大量の鉄鉱石を朝鮮半島の拠点で掘り、環境など気にもせずに鉱山を掘りまくり始めていた。

そうして仕入れて来た地金を、あるいは山陰地方で、あるいは九州地方で製鉄していたのだ。この当時は、まだまだ近畿地方は後進地帯だった。

九州の各所は、兵隊(つわもの)達がそこらに溢れていて、それらが任那と呼ばれる日本の橋頭保に動員されては、船で出掛けて行くのだ。

壱岐や対馬まで往きつければ、後はどうにでも半島には渡って行ける。

私達も何度も半島には渡ったものだ、その度に酷い目に遭ったのだが・・・・。