悪魔と狐の物語

空想歴史小説ファンタジーです。人の歴史を見つめ続けた神狐と大悪魔の物語。

妹狐の物語21

やがて、ひでの兄達は屋敷を辞去して行った。

少し遅くはなったが、死んだ兵隊達も正式に慰霊が行われるのだろう。ひでも同様に。

それとすれ違う様に、多少遅くなったけど、弥栄の一門が稲目様を訪ねて来た。

昨日よりも更に多くの人数で、贈り物も荷車二台分を越えている。小者達が手に手に贈り物を携えている。

ちなみに、稲目様は、この贈り物を全て大和に持ち帰り、その上で明石国では大歓迎を受けたと皆に触れて回ったのだ。

 

弥栄の家は、この後の時代、更に西の広島方向や、北の丹後に分家して、更に様々な場所に定着し始める。その先々で土着の名前に変わりはしたが。

ともかくも、弥栄とは、「国を栄えさせる」と言う祝福を含んだ意味だったので、どの土地でも歓迎されたのだ。代々の家中の教育も優れていたと言える。行く先々で、開拓に業績を残した。それでいて、現地の支配者や有力者を気取りはしなかったのだ。

弥栄氏の住んだ土地としての名前では、明石の隣の須磨に弥栄台と言う地名が残っている。ここは、今でこそ明石市には含まれていないが、この時代からすぐ後に、針間国と明石国が合併して、播磨国になった際には、ちゃんと播磨の一部であったのだ。

弥栄は、八坂とも呼ばれていたが、八坂神社との関連は私にはわからない。

ただ、今も昔も八坂神社の祭神は、稲目様の大先祖である素戔嗚尊である。

これは、全国の八坂神社も同じ事で、素戔嗚尊が牛頭天王と同一視されており、牛頭天王が祇園精舎の護り手であるからとも言われている。(八坂神社は京都市内の祇園と言う場所にある。)

現在の八坂神社の祭神は、播磨国の一部、現在の姫路市内の廣峯山から分祀された御霊を祇園に移したのだと言う。

私は考古学者ではない。単なる目撃者でしかない。だから、これ以上は何も言う筋にはないと思う。

心の中で思う事は、稲目様の配慮に対する感謝。それが後々まで残った結果が、この八坂神社と弥栄氏の子孫の繁栄だったのではないかと言う事だ。

それらを取り壊す事は、後々の権力者たちにも不可能であった。人間達よ、貴方達は知らないでしょう?誰かの善行が切っ掛けとなって、こうして幾世紀にもわたって報恩の輪廻が回り続ける事を。

 

ともあれ、そんな運命の分かれ目であった訪問は、始終駘蕩とした雰囲気で終わり、稲目様の評価は弥栄氏の中でうなぎ上りと言うか、ほとんど心酔して帰った様な風ですらあった。

またしても、稲目様は仏法のありがたさと、その功徳について語っていた。

皆畏まるばかりで、あんまり稲目様の言ってる事わかってなかったのかも。却って、ひでの兄はそうではない感じだった。本当に今で言うところの理知的な人だった。何故あんな弟が生まれて来たのやら・・・・。

長く繰り返し、稲目様は仏法の大切さ、尊さを力説していた。皆、それぞれに思う所はあったようで、八坂の貴人はそのありがたい教えについて、何かの書物や偶像を貰えるかと聞いて来た。

稲目様も流石にこの時点では経典とかは持ち合わせていない。仏像も、本来大和に運ぶべき物しか仕入れていない。

だから、木箱を開けて仏像を見せてあげたのだ。

 

大和に着いてから、私はその現物を見た。ああ、そう言えば、壊れた仏像は既に見ていたっけ。私はそれを見て思ったものだ。キンキラで悪趣味な姿だなと。

金の糸を縫い込んだ服は美しいと思うし、冠は金色でも良いと思う。けど、例えば本当に金色に輝く人とかを見て、貴方はどう思うのだろう?

私は、そう言うのを想像すると好きになれない。あれは太陽を象徴する仏様なのだと、後々の大仏様とかを青銅で作ってみたりもしたらしいが、それも美しい黄色は数代で色褪せて、例の青い姿になり果てているし。

でもまあ、木彫りの仏像や仁王の顔も形も私は好きだ。表情や姿勢が静謐さや躍動に満ちていて、訴えて来るものがある。それで充分なのだから、金色にしないで欲しいのだけど・・・・。

そもそも、私に取っては、太陽崇拝はアマテル本人とアマテルの巫女以外は偽物だとしか思えないのだ。

彼等は基本白衣と黒の掛物で、巫女の袴は赤色であり、金色とかはどこにも入るとは思えなかった。ましてや、身体の全てを金色にするとかはありえない。

個人的には、金の糸が入った衣など願い下げな訳でもあるし。 

 

趣味悪い・・・と思うのは、基本獣であり、貧乏が身に染み付き、物に興味を示さない、ある意味老人よりも偏屈で、実際には老人よりも歳を重ねて来た子供なりの感想だったのかも知れない。

なにしろ、それを見せられた者達は、一様に感心して、美しいとか、ありがたいとか言ってたのだから。

金箔ではあっても、やはり黄金は黄金、押し出しが強いと言うのは確かだ。光り輝く人と聞いて思い浮かべるのは・・・・。

ああ、そうか。私は違う誰かの事を思い浮かべていたのだ。アマテル以前の太陽神、猿田彦の事を・・・・。

今では、記紀には少ししか書き留められていない猿田彦だけど、当時の伝承では「多くの悪しき神」を退治した英雄神の一人だったのだ。

素戔嗚尊を、今の人達が想像するのと良く似ている。稲目様の先祖は、当時は英雄神や災厄の神では無かったのだけど。

そうなってしまうのは、後の事。その事に今は触れない。一言で言って、それはまさに自業自得の結果なのだ。

 

ともかくも、仏像は明石国の人達には大うけだった。

意地の悪い考え方だけど、貴方達は同じ大きさの純金の仏像があったとして、それを単に拝むだけで満足するのかと聞きたい。

鋳つぶして、金塊に換えちゃうでしょうとね。

これが私が最初に見知った仏教の難点だ。仏を崇めるのが、富や権力を崇めるのと同じ文脈だとすると、それは卑しさにも通じてしまうのだ。

実際、寺社は後年になるに連れて権力を増して行く。武力も備えて行く。専売の元締めともなり、各種の融通を金で売る事まで仕出かして行く。

それらは、1000年後付近を一つの頂点として、その後は弾圧されてしまうのだが。

私の危惧や嫌な予感は、つまりそれ程的外れでもなかったと言う事なのだろう。

その残滓は現在までずっと残留している。それもこれも・・・言ってみれば、衆生の支持あっての事だ。悪い事ばかりでもなかったのは、私ももちろんわかっているのだけど。

 

ただ、金色に輝く姿と言うのについては、私は随分後で実際には美しいものだとは理解できた。

しかし、その金色に輝く姿と言うのが、誰の姿かと言うのは、この時点での私には予想もできていなかったのだが。

 

 

 

 

 

妹狐の物語20

朝から私達は早く起きて支度をしていた。

まだ、明石国から出る訳ではない。むしろ、食糧の提供を受けられると言う事で、数日間は逗留する事となったのだ。

朝餉は、例のごとく母の役目だ。屋敷には、沢山の食糧が運び込まれていた。

特に、干した柿があったのはありがたかった。

蒸し器が用意されて、置いてあった臼と干した大豆できな粉が作られる。

須佐の集落で行われていたのと同じ事、糯米を蒸して麦芽糖を作るのだ。

もう、食糧の不足は真っ平だったから。壺も貰って行って良いと言う事だったので、ありがたく頂くつもりだった。

干した野菜や漬物もあった。柿の葉も周辺に沢山ある。ちょっとだけ頂いて、皆で噛んだり、食べたりした。それ程美味しいものではないが、柿の葉にはビタミンCが大量に含まれている。春先の柿の葉は柔らかいし、臭くない。もちろん、ビタミンなんて言葉や概念を当時の私達も人間も知らない。けれど、それらが必要な事を経験で知っていた。(まあ、神狐にはビタミンって必要じゃないみたいだけど。みんなやってるからね。)

 

そや達は、全員が血と脂で鈍った武器を研ぎ直している。護衛達の桂甲もあちこちが解れてしまったり、破れてしまったりと大変な事になっている。

姉は例によって裁縫の腕前を発揮している。本当にあそこまで器用な針子なんか、人間ではなかなか居ないだろう。それが麗しい見目のローティーンで、凄腕の薬師なのだから、もうパーフェクトとしか言えない。

姉は、怪我の酷い順番に治療を再開して、その合間に裁縫までこなしているのだ。姉の事を怠惰だと思える者などこの世にはいないだろう。

作り置きの薬草や膏薬は殆ど使いつくしているが、それで姉の治療に何の差しさわりがあるだろうか。そこらのかぶれない野草をすりおろしただけでも、姉の力なら治療効果は変わらない事だろう。

ただ、今回の旅の反省点と言う事では、私達は結構手の内を見られてしまったと言う事だろうか。ありえない程の有能さを見せてしまったと言う点だ。

しかし、本質的に働き者の私達が、何かで手抜きをする事は難しかった。特に、人の生き死にに関わる事については。

 

その日の昼過ぎ、荷車が大量の食糧を乗せてやって来た。魚介類の干し物、海藻の干し物が俵となって積まれ、穀物も櫃に入れられている。

その車を牽いているのは、逞しい大男達で、徒歩でそれらを引率してきた、背の高い身なりの良い男が門の近くから呼ばわった。

聞けば、彼等はひでの集落の者であり、背の高い男はひでの兄だと言う。

詫びを入れに来たのだなとは思ったが、身内が直々に来るとは思っていなかった。そして、彼はいかなる意味でも、ひでと似たところがなかった。背が高い以外は。

稲目様は彼を屋敷に招き入れて、それから長い間話をしていた。

私は荷車を直したり、麦芽糖を作る作業をしていたりと、バタバタ働いていた。

けれど、屋敷の中から聞こえて来る声は聴いていた。その気になれば、私は何でも盗み聞きできるのだ。稲目様の事も心配だったし。

 

「わしは、今後この国に、外国からの慈悲深い教えを伝道して行きたいと思っている。まずは、お主にその心をわかって欲しいのじゃ。お主の弟とは戦いになった。わからん理由で兵隊達を差し向けられた。そして、返り討ちにしてしまった。兄として見れば、わしはお主の仇かも知れん。わしの事を許してくれるか?」

「それはもちろんの事。稲目様が、その広い御心で、弟の罪を咎めず、埋葬しても良いとの仰せ。ならば、これからでも身共は播磨に向かい、川縁で斃れている弟の亡骸を収め、先祖と共に弔ってやりたく思います。真に望外の幸せに存じます。」

うん、上手く行ったみたい。それがわかれば、後はどうでも良かったのだ。

「して、それが”みほとけ”と言う新しい神の教えなのでしょうか?人を許し、恨まず、殺さず。非道な世を救って下さると?」

「そうであればと思っている。御仏は全ての人を救って下さる、極楽へ導いて下さる方々なのではないかと。そう願い、我等がこの世に御仏の教えを伝える事で、我等の先祖は諸共に子孫達が親しみあい、慈しみあう姿を見て、慰められるのではないかと。そう思い、願っているのじゃ。」

「まことにありがたい教えにございます。なれど、習俗として定着するまでには、随分と時間が掛かりそうですな。」

「左様じゃ。わしの代では無理じゃろう。しかし、子や孫の代まで掛かっても、何としても非道な人の心を正し、安寧に満ちた国を作り上げたい。そう思う気持ちに従いたいと思うのじゃ。」

ひでの兄は、随分と優れた知識人であった様だ。稲目様と互角に言を交えている。そして、スラスラと様々な考えを交換しているのだ。そして、ひでの兄は思う所を切り出した。

「さすれば、古来から我等の崇めて来た神々はどうなるのでしょうか?」

「我等は、様々な神々を崇めて来ました。先祖達、もちろん、稲目様の大いなる先祖でございまする素戔嗚尊、大己貴や櫛稲田、それと繋がる建御名方それらの蛇神を奉じる出雲由来の方々はどうなるのでしょう?また、神格を得た木霊達は?天地に満ちる獣達の神々はどうなるのでしょうか?」

その時気が付いたのだ。後ろに父と母が揃って立っている事に。

「さえ、ここからが大事な所なのですよ。是非聞いておきなさい。」母は小声で私にそう囁いたものだ。私は頷いた、そして更に耳を欹てたのだ。

「この国の者達は、決して古い神々への信仰を絶やしはせぬ。仏の道を説く事は、長きにわたり平和の失われた、哀れなこの国の姿と人心を変える為の方便でしかないのだ。この国の者達はきっと神を敬い続けるに違いない。」

「わしは誰よりも、その事を信じておる。なによりも・・・・。この国に住まう神は、人の姿を持ち、人の心を持ち、人と睦みあい、人を慰めようとする。わしはその事を知った。神々は、人に交じって暮らし、人と同じ心を持つ。善と美を、悲しみと喜びを、神々は人間同様に理解しておられるのだから。この国の者達、我等の子孫達は、決してその事を忘れまいよ。」

「稲目様、それはいかなる事にございましょうか?この身にはさっぱりと・・・。」

「そうじゃな。こればかりは、神々に出会うた者でなければ確信できぬ事じゃな・・・。」稲目様はそう言って、一旦話を打ち切った。

 

ぽんと私の頭を軽く叩くと、父は踵を返して元の仕事に戻った。母も同様に仕事に戻って行った。

私も蒸し終わった糯米を、板の上で麻の布に広げる作業に戻った。

しかし、稲目様の言葉を聞いた後では、作業に集中できる訳もない。頭の中がもやもやしていた。

自分でもわかっていたし、覚悟していた事がある。この旅が終わった後に、それ程遠くない日の内に、私達は稲目様の前から消えてしまうのだと言う事を。

その日は近いのだ。他ならぬ、自分自身の姿が、6歳のままでいると言う事が原因なのだ。兄も姉も人よりずっと成長は遅い。人の目から見れば、数十年経ってもほとんど変わらない事だろう。それは父母も同様だ。

そう、私達は人の心を理解する。人と同じ様に考え、人を好きになる。けれど、人と同じ時間を生きている訳ではないのだ。

その事実が、押し寄せる様な寂寥感となって、私を苛んでいた。

妹狐の物語19

舟の上から見ると、戦死した兵隊達の周囲で、沢山の兵隊達がしゃがみ込んで泣いていた。

本当に殺され損としか言えない、哀れな死に方だった。

何故、ここまで悲しい事になったのか。父と稲目様のお話、父からの説明があった後も、私には良くわかっていなかった。

理解できたのは、随分後だった。多分、何百年生きていても、子供には理解できない類のお話だったのかも知れない。

 

みよしは、こちらの方を何度も窺っているが、積極的に話し掛けては来ない。

今後の明石国での説明について心悩ませ、稲目様のご機嫌をどうするのか。少なくとも、今より悪化させない方法は無いものかと考えているのだろう。

見るに見かねたのか、稲目様の方からみよしに対して近付いて来た。

「みよしよ、此度の事、汝が思い悩む必要は無い。あ奴はみっともなく命を失った。巻き添えで兵達も死んだ。しかし、わしはこの事を大事にするつもりはないのじゃ。」

「お命を危なくした上に、私の様な下々に対しての優しい御心遣いまで。なんと申し上げるべきなのかもわかりません。哀れな兵達、あれは私の集落の者達でした。あの者達も、過ちで明石が滅ぼされる様な事にならなかったと知れば、それだけは慰めとなる事でしょう。」彼は安堵と感謝で涙を流していた。

河口まではすぐだった。その後にまたまた大きな帆を持った船に荷を積み替える。

今度の船は、すぐに難波や摂津に私達を運んでくれるのだと思っていた。実は違っていたのだが。

 

この当時より少し前(300年位かな?)までは、現在の大阪湾までの船程は今とは大きく違っていたそうだ。

そこには、大きな砂州があって、大阪湾その他の外側は、巨大な半内海状態だったのだそうだ。

今では、それらは段々と壊れて来ている。しかし、沿岸を進むのは危険と言う事で、一旦淡路島まで出て、そこから東に進む航路が一般的だったのだ。(砂州の真ん中の方には大きな亀裂に見える水道が入っており、それらは順次急速に拡大中だった。)

海流は、それらの砂州の残骸を、極自然に浚渫してしまい、平安時代には既に東西の海岸は何の危険も無く通行できる様になっていた。

私の知る限り、海岸でここまで大きく地形が変わったのは、この海が唯一の例だ。

まるで、以前は何かがここを封印していた様にすら思える程に、この地は大きく変わったのだ。

そんな訳で、一旦船は明石国に立ち寄る事となった。そもそも、食糧が全く足りないのだ。補給をしないと、途中で皆行き倒れてしまう。

 

明石の港に着くと、みよしは一行にここで待っていて欲しいと言い、自分は駅で馬を借りて連絡に向かった。

あらかじめ予定していた事もあり、近くの集落の使いが待っていた。迎賓館みたいな役目の良く手入れされた屋敷があり、そこが宿泊所となると告げられた。

今回は、荷役に手慣れた者達が、これもちゃんとした荷車に荷物を載せて屋敷まで運んでくれた。

ちょっとした高台にある屋敷までの荷運びだったので、多分疲労している隊商の者達にはきつかったと思う。

けれど、明石の人達は良く働いてくれた。仕事が終わった後、丁寧な挨拶をして、荷役を行った人達は去って行った。稲目様も、普段のとおりに彼等に挨拶をして、苦労をねぎらった。

ずっと思い悩んでいたのが嘘のように見えた。そう見えただけだったのだが。

 

夕暮れ時、東西に長い海岸線の明るい土地では、先日まで通っていた山中と違い、遅く日暮れが来る。美しい夕日を土間で眺めていると、その人達はやって来た。

明石の国の領主である弥栄氏の一門らしき者と、共の者を数名先導して、みよしが馬を駆って来る。武装は誰もしていない。

当時は、まだ馬具の内、鐙は発明されていない。まだまだ発展途上の鞍と雑な手綱だけだから、馬を駆る事ができる者は極少ない。しかも、まだ春なので、馬は比較的に凶暴な状態が続いている。

牡馬ならば雌と引き離されると、常に不満なのだ。(まあ、日本人は結局方法を知っていても、牛馬の去勢とかは明治になるまでやらなかったんだけど。)

余程急いで来たのだろう。二人とも埃まみれだ。綺麗な冠まで埃を被り、多少位置がずれている。

稲目様は庭に出ていたが、垣根越しに見える土埃を見て、急ぎの者が来たとは悟っていた。

予想のとおり、みよしが連れて来たのは、弥栄の家の跡継ぎだった。型の通りに謝罪が行われ、賠償についても話し合われた様だ。そこらは私にはわからない。

父と共に、私も荷車の修理を手伝っていたからだ。水と泥と荷物の重量で、荷車の修理は困難を極めていた。そして夜が来た。

 

大きな声も聞こえず、一時間程も話し合いはなされていた様だ。

やがて、みよしと弥栄の人達は明日の朝に訪問すると言って、そのまま帰って行った。

まだ虫の音も聞こえない春半ばの夜。星空を見つめていると、屋敷から稲目様が出て来るのが見えた。護衛の一人が近くにいるのも感じた。

まだ暖かいとは言えない季節だ。土間に座り、稲目様は何かを考えていた。しかし、そこに近付こうとは思えなかった。そんな雰囲気だったから。

私は直観した。稲目様はまだ悩んでいるのだと。

ひでは死んだ。それなのに、何故まだ悩むのだろう?

そんな事を考えても、当時の私には何が何だかわかってはいなかった。

稲目様の悩みの原因については、大和の国に行ってから明白に知る事になるのだが・・・・。この時は何も知らなかったのだ。

 

そして、夜は更けて、次の日がやって来た。私は、稲目様が夜遅くまでずっと考え事をしていたのを見ていた。

妹狐の物語18

みよしは、武装もせず、身なりを整えた姿で現れた。

おそらく、明石国の長から、稲目様の先導を命じられたのだろう。

ところが、帰ってみれば恐るべき事態が出来していたと言う事だ。

彼の振る舞いは、それでも沈着なものだったが、やはり無理をして自制している事はありありとわかる。

そして、稲目様を見つけるなり、近寄って膝と手を突いた。動転のあまり、いきなりは何も口に出せない。

「みよしよ、良く来てくれた。お前が来てくれんと、我々としても到底動けんところだった。」稲目様はみよしにそう言った。

「聞いてのとおりじゃ。そこの馬鹿者のせいで、そちらは30人以上、我等も一人の護衛を失った。」

「まことに・・・。どの様な申し開きもございません・・・・。」みよしの声は絞り出すような嗄れ声であったが、それでも良く響いた。

「全ては、そこに転がっておる痴れ者の企みよ。」稲目様はそう言って、ひでを指さした。「それをわしは明石国の者が企んだとは思っておらん。」

みよしは安堵の表情を少しだけ見せた。

その時だ。ずっと黙っていたひでが口を開いた。

「みよし、助けてくれ。誤解なのじゃ、兵隊が死んだのは辛いが、稲目様は無事じゃ。取りなしてくれ、わしを助けてくれ。」そう言ってすすり泣いた。

 

あまりにみっともない命乞いに、一同粛然としてしまった。

「正気でしょうか?図太いと言うか、理解それ自体が不可能ですな。」護衛隊長はそう言いながら、既に剣を抜いている。

「待て、殺すな・・・・。」稲目様は制止した。

「あ奴は明石国に帰って貰う。そこで裁きを受けさせるのじゃ。」

「お言葉ですが・・・。」みよしがそう言った。

「明石国でひでを裁きに付せば、事態は公になりまする。その時点で、明石国の皆が誅されても仕方ない事態が出来しまする・・・。」それは懇願だった。

「ひでには、ここで死んで貰う以外にはございません。」

「闇に葬ると言う事か?よかろう・・・。」稲目様もそう答えた。

それからのひでは豹変した。

「やめよ!どのみち、こ奴等を全員殺さねば、いずれ明石は攻められて滅ぼされる。こ奴等を皆殺しにしないと、誰も助からんぞ!」と喚き立てた。

護衛隊長はスタスタと歩み寄ると、振り上げた鉾でひでの頭を叩き割った。念のために背中にもう一撃。しばらく、ひでは痙攣していたが、血も噴き出なくなり、動きも止まった。

 

「これで、此度の騒ぎの張本人は消えた。賊と戦って死んだと、公には言うが良い。わしもこの事は一切大和に帰っても口にはせぬ。」そう言ってみよしを見つめた後に。

「ただし、お前達の口から漏れ出た場合は、わしも黙ってはおらぬがな。」とだけ念を押した。

「は・・・。それは勿論の事。」それだけでみよしは口を噤んだ。

「今更ですが、稲目様ご一行をお運びするための大川舟を用意して参りました。この様な事の後に、お受け頂けるか・・・。」

「ありがたく使わせて貰おう。それと、当方の戦死者じゃが、埋葬を頼めるか・・・。」

「は・・・。謹んで・・・。」その後すぐに、私達は林の中から、加古川の川縁まで移動し始めたのだ。もう、昼を少し過ぎた時間だった。

護衛達は、ほとんど体力の限界で、気力と緊張で身体を動かすばかりだった様だ。

無事な者はまだしも、負傷者達はいわんやおやだ。

 

せめてもの救いは、キチンと食事だけはさせておいた事だろうか。稲目様は、残り少ない食糧の多くを午前中に母と姉に渡して、食事を作らせていた。

食事をさせると言うのは、本当に馬鹿にできない違いを人間に及ぼす。

もちろん栄養補給と言う事は大切だろう。空腹では力も出ないだろう。しかし、食事にはもっと違う効用があるのだ。

それは日常性の回復と言う事だ。食事をすると言う行為そのものが、緊張や憎悪、教父を和らげてくれる。まして、美しい母や姉、そして私と言う戦場には居ない筈の女どもがそれを配っているのだ。

喜び、微笑み、笑う。桂甲を着たままの慌ただしい食事であっても、護衛同士が同僚、あるいは戦友の食事風景を見やると、そこには慕わしい同士が今も生きている、自分と共に日常を過ごしている光景が目に映る。

それが人の目には、優しい性質の人の目には、美しく安心できる光景に感じられるのだ。

それこそが、どんな苦難でも乗り越えさせるある種の余裕を人に与える。

ある男が、ずっと後にこんな事を言ったものだ。(ディスプレイを後ろから覗き込まないでよね。そう、貴方以外に誰が居るの?)

「さえ、個人主義は結局のところ、善や美や正義を守ると言う方向には行きつかないんだ。何故だと思う?」

「人はそれぞれに違う。考えも、感じ方も、生い立ちも、私と君では性別だって違う。けれどね、それでも私は他の人達の事を理解したいと思う。理解できなくても慕う事はできるんだ。そうだろう?」

「けれど、個人を重視する事に人が偏れば、その時点で人は自分と自分以外の人達の権利を絶対だと思い込む。法律で保障されているから?でも、人には本来は権利なんか無い。社会と言う大きな図体の護り手を作って、なんとか互いの権利を守り合っているだけだ。そして、個人主義を奉じる者達は、その社会を軽視しがちになる傾向が強い。どれだけもたれても良いものだと思い込む。単に甘えているんだ。そこには善や美は無い。権利を保証する法律には実は正義は無い。ずるい奴等は、他人からの庇護を当て込んで怠けようとする。」

「人はね、本当は小さな集団だけで、お互いにもたれあって生きて行くのが幸せなのさ。けれど、時は巡って、人は大きな集団を作った。後戻りはできない。これからの日本は、更に大きな社会を作る事が運命付けられている。さて、人がどんな風にとても大きな社会に適合して行くのか。私は楽しみだね。」と・・・。

 彼がそう言ったのは、明治維新の頃だった。最後に私が軍隊の陣中に入ったのも、その頃だった。十数世紀を経ても、人の本質であり、悲惨な環境下での善性は遂に変わらなかったと、私は知っている。(ヴァス、貴方はどうなの?)

ちなみに、その直前まで彼が居たフランスはどうだったのかと言うと、あれが適合の成功例だと思うほど、私は人間に絶望していないとの事だったが。

 

とにもかくにも、最後の力を振り絞って、隊列を組み、護衛と人夫達は進んで行く。

川縁に出て、私達は前日に誤解していた事を知った。

あの汚れた渡し場は、既に上から大きな被せ板を掛けられて、割れた板敷や汚れた石積を覆い隠していた。

増水で、板が頻繁に流されるので、舟に積んだ渡し板を毎回上から被せているのだそうだ。つまり、隊商の皆は過剰に疑心暗鬼になっていたと言う事で、みよしは嘘を吐いていなかったのだ。

こうなって来ると、ひでが愚かで良かったとしか思えない。もしも、ひでがあからさまに私達に敵意を表明していなかったら、奇襲を受けて、もっと沢山護衛が死んでいただろうし、稲目様の無事も計れたかどうか。

大きな舟に、木箱が次々と積み上げられて行く。その作業の最中に、人夫の一人が、木箱を落下させた。船に続く渡し板の上からで、その下には更に木箱が積まれていた。

「あっ!」と言う大きな声と共に、木箱と一緒に人夫が転落する。人夫はそのまま板に当たって肩をぶつけた。木箱は、他の木箱にぶつかって、更に渡し板に落ちた。

それは細長い木箱だった。その中身が転げ出て来た。

「何と言う事じゃ!」稲目様の嘆き声が響き渡る。

そこには、壊れた木製の人型があった。稲目様が運んで来た、百済由来の仏像の一つだったのだ。

怒鳴り声と、哀願の声が交差する。悲し気な顔に見える、初めて見る仏教の偶像は、腕が折れ、装飾も欠けていた。釘で修理するにしても不細工なものとなるだろう。

ともあれ、幾つか運んで来た仏像の一つが壊れたが、その一つ以外は無事だったのだ。人夫は護衛からぶん殴られて、追い打ちで怒鳴りあげられて泣いていた。

そして、へまをした人夫達は他の荷物を運ぶように命じられ、残りの仏像は、そやと兄が直々に運び込んだのだ。

しかし、この壊れた仏像の一件は、後々に大きな事件に発展したと、私達は随分後で知る事となる。

その頃には、私達は蘇我の領域にはいなかったし、稲目様も既に亡くなっていたのだが。

妹狐の物語17

夜が明けた。

その夜明け前の深夜に、殺しも殺したりと言う程に、私達の一行は明石国の兵隊を殺してしまった。

彼等が賊ではなかったと理解できたが、だからと言って、殺してしまった相手側の者達も、死んだこちら側の護衛も生き返らない。

死んだ者は去ってしまい、二度と返らないのだ。

 

さて、この大事が、単なる根性曲がりのにわか隊長がやらかした事であり、別に播磨や明石の指導者達が企んだことではないと言う事だ。

そうとわかっていても、これからどうするのだろうか。明石の兵隊はまだ65人残っている。

こちらは矢をかなり消耗している。後2回同様の勝利を収められるか?一つの軍隊にまとまった65人は、もはや夜襲ではなく、真っ向勝負を選ぶのではなかろうか?

しかし、相手も馬鹿ではない。いや、馬鹿な事をしでかした根性曲がりは、目下のところ生存しているが、明日をも知れない重体であり、兵隊達の指揮者が不在なのだろう。

 

夜が明けて、兄は斥候を買って出た。

流石に、生存者の報告で狭い場所を大勢で通り抜ける愚かさは知れ渡っている。

何者とも知れない、凄腕の「賊」と思しき者達は、飲料水の近くを離れていない。

だから、兵隊達は自発的に3組の分かれていた。

二つの林道を守る隊と、どちらかが襲撃を受けたら加勢に行く隊と。この当時の戦術とかを考えてみると、立派に考えた部類なのではないだろうか?

見たままの配置を知らせると、稲目様も護衛隊長も同様の判断を下した。

 

稲目様は、捕虜の兵隊を呼んで、明石国の兵隊数名をこちらに呼び込んで、まずは負傷者の収容をさせようと考えた。

「お前は明石国の兵隊達に事情をちゃんと伝えられるな?」捕虜を呼んで、稲目様はそう念を押した。

「はい・・・・。」

「では行け。」

「わかりました・・・・。」捕虜は悄然と林を抜けて行った。

 

その後は、明石国の兵士が二人一組で何度かやって来て、その都度負傷者を収容して行った。一回に常に二人しか来ない。紛争の再開を畏れているからだ。

そして、ひでを収容しようとする者は居なかった。

 

誰もが、私達ですら、今回の所業を恐ろしいと思っていた。

明石国の兵士としては、責任の限度を超えているし、想像の限度も超えていたのだろう。こんな恐ろしい事は普通は起こらないものだから。

そして、昼過ぎになって、ようやく事態を解決できる者が現れた。

川縁に大きな舟がやって来て、その舟を先導して来たのが、みよしであったからだ。

大騒ぎとなっていた明石国の兵隊達は、みよしが全て掌握し、何を置いても稲目様に対して逆心がない事を証明せねばならなかったと彼は考えたのだ。

本当に、可哀想としか言えない・・・・。

 

「おとうさま・・・。」私は父の袖を引いた。

「どうした。」父は怪訝そうに私を見た。「お前も稲目様と同じく、私の言った事に引っ掛かる何かがあるのだろう?」

そう言って、私を抱きしめる父は、とても遠くに住む、何か別の世界の人みたいだった。何故なら、父は考えに没頭していて、目が遠くを見ていたからかも知れない。

頷いた私を、父は頭を撫でながら言った。

「勝てないと諦めてしまうと、人はどうすると思う?」父はそう私に問い掛けた。

「諦めたら?」私は首を傾げた。兄と姉も、話を横から聞いている。

「そうだ。」父はそう続けたが、私には良くわからなかった。

そう、私は人間を敵手と見る事ができない。時に単なる障害物、時々腹の立つ物分かり悪い生物。とっても慕わしい人達も多い。

私が、私達が勝てない相手?それはどんな人達なのだろう?

「良くわからないよ・・・・。勝てない相手ってどんなものなの?」

「勝てない相手とは、”我々”に取っては、勝ってはならない相手なのだ。」父はそう言った。

私は父をマジマジと見つめた。父も母も、聞かない事は決して話さない”人”なのだ。

「そんな人と、おとうさまは出会ったの?」

「お前も出会っているのだよ、既にな・・・・。」

父は抱き上げた私を、腕の中でくるりと裏返した。

そこには、沈痛な眼差しで私達を見つめる、蘇我稲目が居た・・・。

稲目様は、何故こんなに心を痛めているのだろう。単に命を狙われたからと言うだけではない。私はその時に直感した。

「人は憎しみと慕わしさの両方の中で、勝てない相手と巡り合う。慕わしさに包まれた負けはすなわち幸せだな。わかるだろう?」私は頷いた。適う筈もない恋ではあったが、私はそれで良いと心を決めていた。

「厄介なのは、もちろん憎しみの中で勝てないと諦めた時だ。それが戦場の中なら簡単な事だ。逃げるか、もしくは逃げ損ねて殺されるかだ。しかし、それが戦場以外ではどうなるのか・・・・。」

「ずっと戦い続ける事になる。勝てないと言う思いと。それは、退屈であり、飢えであり、欠乏である。人を愛しいと思わない者は、それらに勝てないのだ。我慢すると言う事すらあるいは思い浮かばないのだろうかな。」

「そうなると、後は二つしか道はない。より弱い標的を狙うか。もしくは、無理をしてでも、思ったとおりに、勝てない筈の相手を、自分が勝てると思い付いた方法で無理に攻撃するか。どちらかになる。」

「あ奴も最初は諦めようと思っていたのかもな。だから、お前やお前の兄に殺意を向けた。しかし、みよし殿が国元に向かう事によって、留守中に好きに振る舞う事を思い付いた。そして、兵隊をまとめて、我等を襲った。そう言う事なのだろうよ。」

「誰かが犠牲になった。それは間違いない。あ奴は誰かを餌食にする事で生きて来たのだ。稲目様を殺した後は、皆で死体を隠し、口を噤んだだろう。大連を殺して、ただで済む訳はない。そんな大勝負を何故挑んだのか。」父はちらりと稲目様を見た。

「それはあ奴にとっては、自分以外の何も大切だと思えないからだ。明石国がそのせいで滅んだとしても、あ奴はやっただろう。そう言うものなのだ。」

「そんな者は、人の姿をしていても、実は人では無い。もちろん、あ奴を許す理由は無い。けれど、人ではない者を人であるかの様に憎むなど愚かな事。ましてや・・・そのせいで他の人に累を及ぼす事など、正しい事とは思えない・・・・。のですよ、わしにはですが・・・・。」

稲目様は、黙って頷いた。

「この場は・・・な。わしもそうすべきじゃと思う。」

 

その物言いに、私は何とも言えない悲しさを感じた。

その時だ、最後の負傷者収容の兵隊と共に、みよしが林道を歩み出たのは。

妹狐の物語16

夜はまだまだ深かった。

戦闘の時間はおおよそ20分そこそこだった様だ。

母と姉が負傷者の治療と、傷口や当て布を洗う湯を用意した。

幸い池のほとりなので、清浄な水が沢山手に入る。

さて、これからは拷問の時間でもあるのだ。

 

賊はブルブル震えながら稲目様と兵隊達に囲まれている。

「お前達の人数は何人程であるか?」深夜の冷気よりも更に冷たく稲目様は問い掛けた。

「全部で100人程です。集まった半分程の兵隊で、先程の襲撃を行いました。」そう賊は答えた。

「お前達はどこの国の者か?」

「私達は、明石国の兵隊です。お館様の命によって、播磨の川縁と近辺の村を見張って歩いていました。土匪が出没すると言う事だったので。」

たどたどしく口にした内容は、そんな感じだった。

 

「こいつら、本当に明石国の兵隊なんでしょうか?」護衛隊長は稲目様に耳打ちする。

「ふむ。」稲目様は鼻を鳴らした。

「汝は明石国の兵隊であるか?ならば、何故に我を蘇我稲目と知って襲って来たか?」

「そ?蘇我氏のお方であらせられますか?」兵隊は目を剥いた。

「わ、我等は、家族を連れた土匪の集団が、近くに潜伏しているとの事で、兵隊を集めて参りました。そ、そして・・・。」

「もう良い・・・。」稲目様は難しい顔をしているのが見えた。

みんな焚火の近くで座り込んでいる。焚火から遠く離れたところに、惨めにひでが転がされている。

「あ奴がそう言いよったのか?我等が賊であると。」稲目様は怒りに燃えて、ひでの方を指さす。

「そ、そのとおりでございます。ひで隊長が、みよし様が明石国まで戻っている間に、皆で手柄をたてようと言い出しまして。」

「あのひでと言う輩は何者だ?みよしは身分も高そうだったが、何故ひでの下で働いているのじゃ?」と護衛隊長が尋問する。

「ひでは、今回集められた兵隊の出身地付近の集落の長の息子です。集落の長の肝入りで、今回の追討派遣の長になりました。正直、行く先々で問題を起こすので、皆は不安に思っておりました。」兵隊は段々と饒舌になってきた。

「とにかく、喧嘩が好きで、兵隊の気に入らない者を虐めるし、見回った先でも集落の者を不用意に威圧するので、みよし様も困り果てておったのです。それでも、それでもこんな事になろうとは。こんな馬鹿な事を企んだのかわかりません。ついて来た者は、みんな死んでしまった。集落に帰っても、私は今回の事を報告できません。」と言って、がっくり肩を落とした。

 

「我等も人死にが出る程に戦って、お前達も40人程も殺されて、それが道すがらですれ違った、根性の曲がったどこぞの村長の息子の単なる言いがかりや訳の分からない怨恨であったと?それが大連の一行を襲った原因だ。それで通じると思っておるのか?」護衛隊長は吐き捨てた。

「お前達のやらかした事は、明石一国が滅ぼされかねん事なのじゃ。」稲目様も困り果てている。

「じゃが、そもそも解せん事がある。何故にひでは我等をそこまで恨んだのじゃ?我等は単にすれ違っただけじゃろう?思い当る事はあるのか?」

「そ・・それは・・・。ここ数か月、ひで隊長は賊を捉えられず、周辺から苦情が殺到しておりました。みよし様を謗る事をなさって、それが知れて、長を外されると噂になっておりました故、焦っておられたのかも・・・・。」

「それと、以前に横山から来た唐国の貴人と言う触れ込みの者共が、実は賊である事がわかって・・・。裏をかかれたひで様は、付近の住民からの苦情と賠償請求がやって来て困ってました。それをみよし様が何とかとりなして下さったのですが。」

「もう、後が無かったのでしょうけど、よりによって蘇我の大連の一行を襲うとは・・・。」聞いていてげんなりした。

 

「つまり、以前に貴人を名乗る唐人に騙されたから、今回も蘇我の貴人であると言われて疑った。そう言う事が原因だと?」護衛隊長は訝しむ。

お許しの出た明石国の兵士は、姉に手当を受けている。

ひでと呼ばれた隊長は、しぶとくまだ生きている。時々癖なのかもしれないが、口をくちゃくちゃと動かしている。歯も欠けて、唇は裂け、目は一つ潰れて、耳も切り裂かれている。

動いたら殺されるとわかってるみたいで、大きく動こうとはしない。時々うめき声をあげて、黙れと脅されているが、懲りていない。

護衛の一人は、鉾をひでの頭付近の地面にぶつけた。流石に恐ろしくなったのか、横を向いて震えている。気付けに池の水をかぶせられて震えてもいる。

そやが近付いて来た。毎度の無謀な戦いで、そやも無傷では終わっていない。

今日も林の中で枝で額を切り裂いていたし、桂甲の布地も破れている。

「あのね・・・。あの、ひでって言う奴。稲目様を見て、ずっと殺してやるって言ってたの。私も殺してやるって思われてたみたい。凄く怖い目だった」と言うと

「何故なんだろう?何故あそこまで馬鹿な事をしでかしたんだろう?」

後々に、私は知る事となったが、精神を病んでいる者は、例えば成人の男、成人の女、子供がいるとすると、必ず子供を狙うのだそうだ。

何故と言うと、本能的に勝てそうな相手を狙うのだと言う。

ひでと言う奴は、多分それに近い精神状態だったのだろう。勝てそうだと思った、だから襲った。勝てそうな人数と、不意打ちで私達を殺そうとした。

進出不明の夜盗や山賊よりも、手早く殺せて、後に言い訳も立つ方法を取ろうとしたのだ。

何と言っても、蘇我の大連程の大物を殺してしまうと、それこそ大問題になる。だから皆で口を噤む理由にもなる。

言いがかりをつけて殺せる相手を、ずっとひでは探していたのだろう。そして、彼の器の限界点がやって来た時に、たまたま私達が通りがかった。

後でわかったのだが、兄もひでから殺してやると呟かれて、睨まれていたのだそうだ。

 

弱い者に攻撃を掛けないではいられない。そんな奴だったのだろう。

そんなひでであるが、朝まできちんと生きていた。

そして、朝には明石国の残りの兵隊が大勢、林の外側に既に到着していたのだった。

私達一家は、それを超感覚で悟っていたが、稲目様達には知らせなかった。

知っている筈がない事だったのだから。それを知らせるなど愚かな事である。

それまでの間に、明石国の兵隊の内で、息の残っていた5人程は姉と母の看病で蘇生していた。40人が35人に減ろうとも、多くの人死にが出たのは間違いないけども。

そんな中で、思い悩む稲目様に対して、父が珍しく口を開いていたのだ。

「稲目様、ひでの行った事が釈然としませんか?」

それに対して、稲目様は驚きを隠せない様子で、「左様。全く解せぬのじゃ。」と答えた。

父は思う所があるようだった。「稲目様は大連であらせられた。そうですな?」

「いかにも・・・。じゃが、それがどうしたのじゃ?」

「思いめぐらされよ。ひでなる悪漢は、所詮は鄙びた明石の村長の息子であり、大連はおろか、兵隊を指揮する事すら、今後はありえないと、そう皆が思っていた奴ばらでございます。」

「それが、蘇我の棟梁たる貴方様は護衛を両手の指より少し多く引き連れただけで、自分の部隊を騙して、唆せば、貴方様を殺せるかもしれないと思った訳です。」

「わしをそれ程に殺したかったと?」稲目様は尚も納得できないようだ。

「さようですな。あ奴の様な曲がり者はどう考えるのでしょうか?肉親や妻子、部下に対する愛情の中で勇気を育み、戦場に臨む者は、決して粗末な戦いの理由で戦う事はありませぬ。しかし、品に乏しく、力量も無く、単に怒りや恨み、出世できぬ身の上を嘆くのみの、己一人だけの世界で生きる半端者には、その程度で理由は立つのでしょうよ。」

稲目様が驚いていたのは、普段喋らない父が口を開いたからか、普段人を寄せ付けない父が人の在り様を語ったからか、父が自分よりも深く人を考察していたからなのか。

「しかし・・・。それが大連を襲う理由なのか?一族滅せられても仕方ない所業を何故に?」稲目様は信じられない様子だった。その時、父は突然に私に声を掛けた。

「さえ・・・。お前は稲目様を慕っておるか?」

私はドギマギした・・・。唐突過ぎる。けど、黙って頷いた。

「稲目様。さえは貴方様の事を考えただけで幸せで、貴方様に抱き抱えられるだけで幸せなのです。普通の人とはそんなものです。」まあ、私は全然人ではないのだけど・・・。

稲目様はその言葉に頷いて、私をあの優しい目で見つめてくれた。心の中に暖かく、安心できる波が立つ。それは、人が感じる事のできる、人の心を持つ者が感じる事のできる、人を結び付け、安らがせ、どんな苦難の中でも道標になる何かなのだ。

「しかし、それを感じられない者がいるのです。」父は、まさに汚物を見る目で脇に転がる血まみれの人物を見つめた。

「そんな者達はどんな風に世界を見ていると思われますかな?人を愛しいと思えない者達とは、何を頼りに生きていると思われますか?」

稲目様は、信じられない何かを見つめる風に父を見つめた。

「その様な・・・。その様な者達をそなたは何人も見て来たのですかな?」稲目様は固い口調でそう言った。

父もある意味決意を固めた様だ。常に平静な父が、更に静かに答えたものだ。

「はい、何人も見て参りました。」

「私は、貴方が思っておられるより。そう、思っておられるより、ずっと長生きしております故に・・・・。」

「左様か・・・・。では、その様な者共は、どの様に世界を見ておるのでしょうか?」

「彼等の世界は、きっと灰色か黒の単色の世界なのでしょう。色はありませぬ。しかしながら、喜びはあるのです。粗末な、人から盗んだ喜びは感じられるのです。そして、彼等彼女等は貪る事しか知りませぬ。」

「何故なら、何故なら、その者どもの食する食餌とは、食えば食うほど腹が減る食餌だからなのです。塩水を飲むと、更に喉が渇くのと同じでございますな。」

「さて・・・。それはどの様な事なのか・・・・。」

「あ奴の様な者どもは、他人を犠牲にする事で昂るのです。他人の幸せを壊せば、命を奪えば、他人の幸せを盗んだ気持ちになれるのです。真実は何も変わっていない、けれど、そうせざるをえないのです。求めて手に入れられず、手に入れた者を見れば、渇望が湧き上がる。それを何度も繰り返す内に、他人の幸福を壊す事それ自体が目的となる。そして、人から愛しみを受ける事は喜ぶものの、人に愛しみを授ける事はないのです。全ては単なる物であり、そこに心は無いのです。」父はそう稲目様に対して説明した。

「それこそ、それこそが仏の教えに書かれた地獄道じゃな・・・・。」稲目様は呟いた。

「”じごく”でございますか?」父は初めて聞く言葉を理解しかねている。

「悪行を成した者が、死後に落とされる救われぬ牢獄じゃよ。」稲目様はそう言ったものの、後々に私が知る事となった地獄とは、随分違う世界を漠然と想像していただけだったのだと思う。

「ならば、それは人の心の中にあるものかと思しまする。死後の事を詳らかに見る者は、この世の中にはおりますまい。遠い異世界ではなく、地獄はまさにこの世の人の心の中にありますのでしょうよ。」父はそう言った後に、もう一度ひでを眺めた。

「あそこに転がっておるのは、大連を殺して、大連以上の力を得たと思い込みたかった愚か者でございます。あ奴の様な愚か者は、遂には大それた事を仕出かしては滅ぶのです。しかし、退屈と不平を持て余して生きる者とは、そういう道を辿るしかないのでしょう。」

「わし等は日々を忙しく過ごし、その合間に気に入った何かを愛でる。愛しい人や愛しむべき身内を常に労わって暮らす。じゃが、その様な日々を過ごさぬ者がそこにおると言う事か。」

「はい・・・・。」それを境に、父は普段の寡黙な人に立ち戻った。

言うべき事を言ったからだ。後々になって私は、父に後に出会った神狐の長老と同様の力があったのではと思う様になった。

父が告げた言葉は、その後に出会ったあの人物の事をそのまま表現していたからだ。

稲目様は、随分深く考え事をしていた。とても悲しく、寂しく、心痛める表情をしていた。私が傍に寄ると、稲目様は黙って私をかき抱いた。その後はずっと黙って考えていた。

妹狐の物語15

「襲って来ますかね?」稲目様に対して、護衛の隊長は小声で聞いていた。

「襲って来るだろうな。来るとすれば夜かな。存外、あ奴等こそがまさに土匪なのかも知れんぞ。あれらが明石の兵隊と言うのも怪しいもんじゃ。飾磨あたりの兵隊でなければ、ここまで越境して警備できるとは思えんしの。なにしろ、知らぬ顔の兵隊がうろついて、怯えぬ良民などおらん訳じゃからな。」稲目様はそう答えた。

「ここらの土豪が、あんな連中がうろついているのを黙って見ているとは到底思えんわい。」

「みよしとひでのやり取りを聞いておりましたが、あれは本当にひでが先任の兵隊で、みよしは副官である様でした。我らの人数を見て、犠牲なしには勝てぬと思った故のとりなしではないかと思えます。」

「では、もっと人数を集めて来ると言う事か?」稲目様はげんなりした様子で答えた。

「はい、見えただけでも対岸に20人ばかりおりました。しかもあの桟橋をご覧ください。」桟橋は、板は割れており、手入れをしている様子もなかった。多分、流れに対して位置が悪いのか、何度か洪水で飲まれた関係で他の場所に移設され、破棄された桟橋であるようだった。

あのみよしの言葉も嘘だったのだろうか。

「弓と矢を全て出しておけ。それと、迎え撃つのに良い場所を見つけよう。」

後々に思ったのだが、稲目様は実戦の経験が豊富だったのだろうか?もちろん、大連なので軍務にも就いた事は多かったのだろうけど。

それにしても、私が見た最後の戦いでは、稲目様の采配は見事の一言だったのだ。

私達は昼なお暗い、うっそうとした林の中に入り込んだ。

そこにはほんの小さな池と何かの塚があり、私達はその塚の近くに陣取った。

荷車は池のほとりに置かれているのが2台。塚の近くに置かれているのが2台で、塚の近くの荷車は、例によって木箱を降ろした後に、立てかけて簡易の防壁とした。

林からは道が2本通っているが、それ以外は集団が通って来る事は難しい。

 

襲撃は夜中にやって来た。

私は、今回は偵察役を買って出た。もう、父と母は「毒を食らわば皿まで」と諦め切っている。稲目様も、頷いて「頼む」とだけ言ってくれた。

母と姉は、塚の前で焚火を焚いて動き回る役目だった。ご丁寧に、桂甲を着せた兵隊人形相手にいろいろと世話を焼いている風を演じている。

それを見つめていた二人組の斥候は、一人が林の外にいる本隊に伝令に向かった。

私はそれを見て、音もなく稲目様の所まで走った。

その間に、兄はこっそりと斥候の後ろまで忍び寄って、棍棒の一撃で斥候を気絶させた。

一か所の林道は、あちこちに釘を打った板が敷かれた。

稲目様は父に頼んで、木を薄く切り、釘を打ち込んで貰っていたのだ。

もう一カ所には、稲目様の護衛がびっしりと詰めていた。

今風に言うと、これは各個撃破と言う事なのだろう。片方の兵隊を潰し、その後にもう片方を潰すと言う戦術だ。

林の外側に待機していたのは、大体50人程の兵隊で、半分程も音のする桂甲は脱いでいる。全員が鉾と剣、あるいはそのどちらかを持っているが、弓矢の持ち主はそれ程多くない。10人いるかな?

持ち運びに不便で、今回の様に人数の差が大きいと、夜陰に紛れて、叩いて殺してしまう方が楽は楽なのだろう。

ともかく、彼等は奇襲で一撃で私達を皆殺しにする算段だったのだろう。生憎だったけど・・・。

 

 「女は殺すなよ。男だけだ。」そんな呑気な事も言っていた。

 さて、こちらは兵隊はそやと後3人だけの組だ。10人は稲目様と共にもう一本の林道を固めている。両方とも、剣を構えた白兵戦部隊が敵を食い止めて、隊列が通り過ぎた後ろから弓隊が3人ずつ撃ちまくってから、その後は剣を抜いて包囲すると言う作戦だ。

ただし、こちらの方は土をかぶせた釘と板で足止めして、横から槍でそやが突きかかる。反対側の私と兄は石礫を投げてから退散。後ろから弓が二人出現して射撃。こんな感じだ。足止め以上は何も期待されていない。

まずは、どちらが網に掛かるかだ。護衛の隊長は、数名を連れて前に立ちはだかる。稲目様は林道の外からこちらの本隊と挟み撃ちにするために弓を3名を連れている。

最後尾の後ろから、気付かれない様に追尾して、ここぞと言う時に弓を射るのだ。

稲目様の傍には父が付いている。父は槍を振るうまでもないだろう。

ちょっと相手を見つめるだけで良いのだ・・・・。

 

戦闘は深夜、後の丑三つ時あたりに始まった。

こっそりと足音を忍ばせて、馬鹿な土匪達は奇襲を狙って進撃して行く。

私達の方にやって来る組のリーダーは、どうやら例のひでと言う背の高い根性曲がりである様だ。

ほとんど同時に、2人の賊が釘を踏み付けた。大きな声をあげる馬鹿な兵隊に、更にひでが追い討ちを掛けて、狂った様な怒鳴り声をあげてしまう。

この時点で、不意打ちを狙っていたにしても、相手は誰もが起きてしまっていただろう。

ただ、斬り抜けられる人間相手ではなく、真っ暗な闇の中で釘をどうこうするのは、松明を持たない奇襲部隊には不可能な技である。

私と兄は、ほぼ同時に、賊の弓矢を持った者を石礫で狙った。兄は相手の頬を打って、横と前の歯を全て叩き割り、地面の上でのたうち回らせた。

私も弓矢の兵隊を狙った。ただし、相手の手首を狙った。一発で手首は奇妙な方向に折れ曲がり、やはり悲鳴が巻き起こる。

その時、あらかじめの計画のとおりに、弓を持った兵隊が林の暗がりの中から躍り出て、釘を打ち付けた板を転がし始める。後は、それらしき場所に対して弓矢を打ち込むだけだ。悲鳴が上がる。「後ろから矢を射る者がおるぞ!」と言う声があがる。

単にそれはパニックを助長するだけで、それで前に押されて釘に刺さる者、横から出現したそやに槍で突き殺される者、慌てて方向を見失い、後ろに戻ろうとして弓矢に当たる者。

その場に立ち止まって鉾を振るおうとした者もいたが、所詮は開けたところでしか使えない武器だ。木々の中から槍を繰り出す小柄なそやには当たらない。

桂甲を着た兵隊は、まず肩のあたりを突かれ、鉾を取り落とした。その後には剣を抜く前にそやの槍が喉を捉えた。

 

更に悲惨だったのが、もう一つの部隊だった。彼等は首尾良く林道を抜けるところまでは果たした。抜けた瞬間に、本当に僅かな星と月の灯りの中から稲目様の護衛が鉾と剣で襲い掛かった。2人ずつしか抜けられない出口で、剣と手盾を持った完全武装の兵隊が2人立ちはだかり、その横からは鉾を振り下ろす2人が援護する。

うろたえ騒ぐ賊の後ろから、稲目様と3人の弓兵が襲い、応戦しようとした2人の弓兵の賊は、父が弦の根本を焼き払った為に何もできない間にこちらの弓の餌食となった。

稲目様の弓隊は、更に前進して敵の背中を着実に捉えて行く。

前列は5人を仕留めて、それ以上は誰も前進しない。後列は5人を射止め、更に戦果を拡大している。

前列の護衛は、遂に鉾を捨てて剣を抜く。そして林道の出口に陣取って動かない。前に出て来る者があれば、それに剣を振り下ろす態勢だ。

代わりに、剣を持っていた兵隊は盾を捨てて弓を構える。賊が前に出て来ないなら、こちらからわざわざ進んで行く事もない。狭い暗い場所に踊り込む等、勇敢な行為に見えて実は単に無謀なだけだ。

両側から弓を射られて、更に5人程が倒れる。賊は壊滅して、林の中に武器を捨てて逃げ込んだ。

一人が足元の木の根に躓いて転ぶが、その背中に弓兵の抜いた剣が振り下ろされる。

逃げたのは5名と少しだ。

 

こちら側も勝負は付く寸前だった。石礫と矢に追い立てられて、賊は前に進むしかなくなっている。林道の脇に向かえば、そやが槍を持って突いて来る。反対側からは骨を砕く石礫が投げられる。後ろには弓矢が向かって来ると放たれる。

遂にそやは3人目を倒し、弓と石礫が10人を戦闘不能にしていた。

釘は猛威を揮い、5人の足を地面に縫い留めて、倒れたところで顔を釘で傷つける者まで出て、大騒ぎになっている。

ひでは、そやの槍を肩に受けて鉾を既に持てない有様だ。怒鳴り声と呪詛を吐き散らす汚い口の付近に小石が当たって、前歯を砕いて、唇と鼻の下を切り裂いてしまう。前かがみになったところをそやの槍が突いて、眉と目を切り裂く。その勢いで、冑を叩き落とし、耳のあたりまで切り裂かれた。遂にひでは地面に転倒した。

そこには釘が待っていた。

 

桂甲と冑を着込んだ兵隊は、鉾を捨てるとそやの居る林道脇に逃げ込んだ。そやはもう一人の兵隊相手に戦っていたので、それを取り逃がした。

数名がそれに続いており、武器を取り落として逃げて行く。

そやが一人を突き殺し、林道に二人だけ残った賊は林道脇から出て来たそやと、後ろから迫る弓兵(もう矢は射耗して抜剣していたが)に挟まれた。

賊は長柄の武器を持つそやを避けて、退路を弓兵の方に求めた。

鉾を剣で受けた一人の弓兵は、残った賊の剣を避けられなかった。鎧の隙間に剣が刺さり、くぐもった悲鳴をあげて兵隊は倒れた。

後ろからそやは槍を突き出して、鉾を持った兵隊を突く。甲に当たってそれは致命傷にならなかった。弓兵はもう一人の剣を持った賊の左側から斬りつけ、次に斜め右からの一撃を見舞った。

賊と言っても本来は兵士なのだろう。十分に手強く、護衛は手を焼いた。

そやに向き直った鉾を持った賊は、次の一撃を避け損ねて左肩を傷付けられた。

次に太腿を突かれたが鉾で反撃して来た。しかし、速度も軌道もフラフラと言う感じで、槍に払われてもう一度肩を突かれる。

鉾を取り落とし、剣を抜こうとしたが、背後からもう一人の賊が護衛に押されて後退したのにぶつかってしまった。

護衛は賊を一人斬り倒して大けがを負わせた。鉾を持った兵隊は逃げる方向を探そうとして、そやに突かれて蹲った。

 

そやが戦闘不能になった兵隊を始末している間に、私と兄は釘の刺さった板を取り除ける作業を行っていた。

泣き声をあげる賊を無視して、武器を取り上げて行く。暗闇の中でも、私達二人は何の問題も無く釘を見つけられた。後は土をどけて、板を横に避けるだけだ。

釘の刺さった賊の板だけはそのままにしておく。それ以外は手早く片付けて、そや達の通り道を確保するのだ。

ふと見ると、血だまりの中でひではまだ生きていた。耳は千切れ、頭は槍と釘で傷付き、歯も唇も酷い有様だった。

ざまあみろ、そう思った。こんな奴に何の同情も必要ない。兄も同感である様だ。ひでの有様を見ても何の反応も示さない。

 

そやは疲れている風ではあったが、弓兵の生き残りと共に、仲間の死体を担いでいた。

傷付いた賊を見て、「お前達、死にたくないなら歩いて俺達と来い。動けないならここで殺す。」そう言い放った。

賊たちは泣き叫んだが、一人をそやが突き殺すと、もう一人は立ち上がろうとした。

しかし、足の甲を貫通した釘が抜けず、その場でまたしゃがみ込んでしまう。

兄が板を乱暴に引き抜いて、賊は悲鳴をあげる。

「それで動けるだろう。さあ、俺達の前を歩け。」静かにそやに告げられて、賊はびっこを引いて歩き出す。この賊、既に泣き始めている。勝手なものだ。

ひでは、兄が髪の毛を掴んで引き摺って行った。どうせ殺されるのだろうけどね。

 

この様に、私達の今回の旅で、最も大きな戦いは終わった。